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戦時労働者問題の全体像(上)

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はじめに

 

韓国の最高裁判所が、日本企業に対して元戦時労働者らに慰謝料として一人1億ウォン(1000万円)を払えとする不当判決を下してから1年が経った。この国際法違反の不当判決によって日韓両国の外交関係の土台が激しく揺さぶられている。

 

判決は日韓併合条約に基づく日本の朝鮮統治を不法だと決めつけ、不法行為に対する慰謝料は1965年の条約と協定で清算された請求権に含まれないとする、論理を打ち出した。これに従えば、統治時代に日本語を学ばされた、神社に参拝させられたなどあらゆることが不法行為だとして慰謝料を求められかねない。

 

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判決はすでに日本最高裁が下した原告敗訴判決について、韓国の公序良俗に反するから受け入れられないとする、日本の法秩序に挑戦する一方的な主張をしている。そもそも、国際法は司法を含む国内法に優先するという原則から、1965年の条約と協定で解決された個人請求権を持ち出してくること自体、国際法違反だ。

 

日本政府は繰り返し韓国政府に対して、国際法違反状態の是正を求めた。しかし、韓国政府は何も手を打たず、ついに日本企業の韓国における財産が侵害される重大事態が起きている。すでに日本企業の在韓財産が差し押さえられている。それが現金化されて原告に渡れば、日本企業の私有財産が不当に侵されたことになり日韓関係は取り返しがつかないところまで悪化するだろう。

 

日本の立法府は1965年に日韓基本条約と請求権協定を批准したことを受けて、国内法(財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定第二条の実施に伴う大韓民国等の財産権に対する措置に関する法律)を制定して韓国人が日本人(法人を含む)に対して持っている債権を消滅させた。

 

したがって、韓国人の財産請求権はこのとき消滅している。だから、韓国の判決により、日本の法秩序と韓国の法秩序が真っ向から対立する異常事態が両国の間にいま起きているのだ。そのようなことが起きないように、国と国は条約を結んで過去の出来事を清算する。ところが、韓国の司法府はその条約を無視する判決を下し、韓国政府は日本に対してその判決に従えと求めている。原告側は1月に当該日本企業が韓国で持つ合弁企業の株式を差し押さえし、5月はじめにその現金化の法的手続きを開始した。その手続きが様々な理由で延びているが、判決1周年である今年10月末、原告側は来年初めに現金化を行うという会見を行った。

 

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今、日韓関係の根本が揺さぶられている。ここでは、この問題の経緯を詳しく知らない外国人の皆様に問題の全体像を提示したい。労働者戦時動員の実態、昭和40年の請求権協定での戦後処理と韓国政府が2回行った個人補償の実態、日本人運動家らによって90年代から始められた裁判騒ぎの経緯の3つについて概要を記す。

 

まず、用語について書いておく。朝鮮人の戦時労働動員は1939年から始まった。42年までは「募集」という形で、民間企業が朝鮮で募集を行うことを朝鮮総督府などが支援した。43年からは「官斡旋」すなわち総督府が地方行政組織を使って動員者を集めた。しかし、法的な強制力はない「斡旋」だった。44年9月から法的強制力のある徴用令が発動された。

 

だから、戦時動員全体を指す言葉として「徴用」「徴用工」という用語はふさわしくない。私は、朝鮮人戦時労働者という用語を使っている。

 

それでは、日本企業に賠償を求めている朝鮮人らが、どのような経緯と立場で、当該企業で働いたのか。結論を先に書くならば、権力により無理やり動員され奴隷のように酷使されたという、一部で言われているイメージは事実に反する。そのことを、日本と韓国における実証的な研究を根拠にして、順を追って説明しよう。

 

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1.日本統治で豊かになった朝鮮人

 

1910年、日本は大韓帝国と「日韓併合条約」を結び、朝鮮は日本の領土に編入された。ただ、すぐ内地と同じ法の適用を受けず、朝鮮総督府がおかれ、総督府により朝鮮が統治された。

 

総督府は疲弊していた朝鮮社会に近代文明を移植するため、多額の財政負担をしながらインフラ整備に努めた。日本の統治期間で、朝鮮の人口は1910年の1300万人から1945年に2900万人(朝鮮内2500万人、在日本200万人、在満州・華北200万人、在ソ連10万人)に増えた(森田芳夫『数字が語る在日韓国・朝鮮人の歴史』明石書店1996、17頁)。

 

また、最近の韓国経済学者らの研究によれば1910年から1940年の朝鮮経済は年平均3.7%成長した。同じ期間の人口増加率が1.3%だから、一人あたりの実質所得は年平均2.4%増加したことになる(李栄薫『大韓民国の物語』文藝春秋2009,97頁)。すなわち一人一人の朝鮮人も日本の統治期間に豊かになっていったという点を強調しておきたい。

 

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さて、朝鮮人戦時動員の実態の説明に入ろう。戦時において自国民だけでなく統治していた他民族を軍需産業などでの労働に動員することは、よく見られたことだった。ILO条約でも戦時における労働動員は条約違反ではなかった。

 

日本では1939年、「国家総動員法」が制定されて戦時における労働動員の体制が作られた。しかし、内地では徴用という法的強制力のある労働動員がすぐ実施された。朝鮮ではすぐに「徴用」による労働動員は実施されず、その代わりに次の3つの形式による動員がなされた。

 

1. 1939年9月から1942年1月、民間企業が朝鮮に渡って募集する「募集」
2. 1942年2月から1944年8月まで朝鮮総督府が各市、郡などに動員数を割り当てて民間企業に引き渡した「官斡旋」
3. 1944年9月から1945年3月頃までの徴用令に基づく「徴用」

 

この三つの形式の動員とも、動員先はすべて民間企業で、通常2年の期限契約だった。待遇は日本人並みで、総体的に良かった。当時、日本人男性の多くが徴兵のため不在で、日本本土は極度の労働者不足となり賃金が高騰していたからだ。

 

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ただし、1では動員された労働者は事前に動員先企業がどこであるか知ることができた。ところが、2と3では、まず動員が決まり集合場所に来てからどこで働くかを通知された。戦争に協力するための労働動員の性格が強かったことは事実だ。

 

日本が敗戦した1945年8月に日本内地には朝鮮人が200万人いた。そのうち国家総動員法に基づいて動員された労働者は約32万人だった。つまり、全体の15%だけが戦時動員労働者だった。軍人軍属が11万人いたから、広い意味での動員朝鮮人43万人が日本にいたことになるが、そこまで合わせても22%にしかならない。

 

残りの約8割、157万人は出稼ぎなどのために渡日した者、動員労働の途中で逃亡して待遇の良い職場に移った者、動員契約終了後に残留した者とそれらの家族だった。

 

国家総動員法による動員が始まる前の1938年末に内地の朝鮮人人口は80万人だった。したがって、動員期間の増加は120万人だが、そのうち3分の2にあたる77万人は戦時動員ではなく自分の意志による出稼ぎ者らだった。(拙著『でっち上げの徴用工問題』草思社2019、140頁)

 

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それでは内地に動員された労働者は全体で何人だったか。いくつかの異なる統計があり、正確な数字は分からない。日本政府は、1959年版「入管白書」で約63万5000人としている。私もその数字を妥当だと判断している。

 

次に内訳を検討したい。やはりいくつかの数字があるが、私の研究によると、「募集」は13万人、「官斡旋」は30万人、「徴用」20万くらいだ。(前掲拙著160頁)

 

次に三つの動員の特徴を述べよう。

 

まず、動員前期といえる1939年から1941年の「募集」を見よう。

 

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実は、「募集」による動員が始まる前にも、朝鮮から内地への労働者の渡航が多数あった。地理的な近さもあり、完全に内地に移住するよりも頻繁に内地の職場と朝鮮の実家を行き来する出稼ぎ型の渡航が主流だった。

 

日本政府は朝鮮人の内地渡航が増えて内地人の失業や就職難を深刻化させ、従来から内地にいる朝鮮人の失業も増やし、その結果、朝鮮人関係の犯罪などが増えて治安問題となっているとして、1934年に朝鮮人の内地渡航を減らす総合対策を閣議決定した。

 

朝鮮人の内地渡航を減少させるために以下の4つの具体的対策が決められた。

 

1. 朝鮮内における内地渡航熱を抑制すること
2. 朝鮮内における地元諭止を一層強化すること
3. 密航の取締を一層強化すること
4. 内地の雇傭者を諭止し、その朝鮮より新たな労働者を雇い入れんとするを差し控え、内地在住朝鮮人または内地人を雇傭せしむるよう勧告すること
(『法務研究報告書第四三集第三号 在日朝鮮人処遇の推移と現状』法務研究所、44頁)

 

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1939年9月から始まった「募集」による動員は、この閣議決定の例外措置という位置づけだった。(前掲書17頁)

 

放置しておくと多数の出稼ぎ朝鮮人が内地に渡航してくるので政策としてそれを止めていた状況が、動員が始まる頃にすでに存在していた。

 

「募集」による動員はその例外として始まった。内地の事業主は、朝鮮で労働者を募集するなと行政指導を受けていた。それが戦時動員という名目のもと、一部例外として解禁され、許可を受けた者だけが現地まで行って募集をすることが出来るようになったのだ。それが「募集」による労働者動員だった。無理やり朝鮮人を連れてくることではなかった。

 

この時期も上記した内地渡航抑制策「密航の取締を一層強化すること」は続いていた。「募集」による動員が行われた1939年から41年の3年間で、なんと1万8千人の不正渡航者が摘発され、そのうち1万6千人が朝鮮に送還されていた。

 

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例外としての「募集」渡航を認めたところ、朝鮮内の渡航熱が再度、急上昇した。なんと「募集」による渡航者の9倍の朝鮮人がわれ先にと出稼ぎのため内地へ渡航していった。

 

内務省統計では、この時期の動員数は12万6千人だった。内地渡航者総数は107万人だったから、動員数はその11%に過ぎなかった。残り9割、94万4千人が出稼ぎ渡航者だった。

 

「募集」の時期、内地渡航制限を戦時動員に限って例外として緩めたはずなのに、実はその9倍の出稼ぎ渡航者が自分の意志で個別に内地に渡ってきていた。

 

(下)に続く

 

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筆者:西岡力(現代朝鮮研究者。麗澤大学客員教授。公益財団法人モラロジー研究所歴史研究室長・教授)

 

 

この記事の英文記事を読む
[Wartime Laborers]

Part 1: South Korea Ignores History, Violates 54-Year-Old Treaty
Part 2: Separating Facts from Fiction: Korean Workers Were Recruited, Not Coerced
Part 3:The 3 Phases of Recruitment: Workers Came to Japan on Their Own
Part 4: Koreans Were Compensated Twice Before
Part 5: Japan Activists Incite Koreans to Sue Based on Lies About Forced Labor

 

 

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