呉市・清水ヶ丘高校で講演する太田英昭JAPAN Forward代表理事=2025年10月14日(©JAPAN Forward)
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≪JAPAN Forwardの太田英昭代表理事(産経新聞顧問)は2025年10月14日、広島県呉市にある清水ヶ丘高校で、同校と姉妹校・呉青山中高の生徒計600人を前に「日本と日本人について」と題した講演を行った。講演は、清水ヶ丘高校看護学科の1年生が看護実習をスタートするにあたり、ナースキャップを頭にいただく戴帽式の後に行われた。当日は時間の制約で準備した内容を短縮して講演を実施したため、ここに準備した講演内容のほぼ全文を掲載する。掲載にあたり、なお、JAPAN Forwardは学校側の了解を得ている。≫
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■戦争とは
戦争といえば、人間の歴史から消えたことはありません。紀元前から今に至るまでずっと戦争は続いています。紀元2世紀、ローマ帝国の最盛期、賢帝、賢い皇帝といわれたマルクス・アウレリウスは、こんな言葉を残しています。
「世界は絶えざる悪に悩まされるべく定められているのだ」。イスラエルとハマスの戦闘、戦争ですね。今少し良い方向に向かいつつありますが、ガザの戦争。
毎日のようにその映像がメディアで流れていますが、悲惨、極まりありません。ロシアが侵略したウクライナ戦争はまだ続いています。太平洋戦争、日本は大東亜戦争と言っていましたが、第二次世界大戦の後も、朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガン戦争、イラク戦争、戦争が絶えることはありません。
私たち日本と日本人にとっての戦争には、当然、言い分、理由があり、アメリカにも言い分があり、日本に侵略された中国にももちろん、言い分があります。それぞれに理屈があり、いわば正義という名のもとに戦争が行われてきたのですが、正義とは一体何なのかということを考えざるを得ません。
1945年、日本が戦争に負けた年の3月10日、戦艦大和が出撃する前ですが、東京に米軍による大空襲がありました。
「東京大空襲」と呼ばれています。3月10日未明から東京は米軍のB-29の猛烈な爆撃を受けます。普通の人々が住んでいる市街地、軍事施設も軍事工場もないような民家に向けて、当時は鉄筋コンクリートの家など珍しく、ほとんどが木造家屋でしたが、無差別爆撃が行われました。
その東京に焼夷爆弾、今でいうナパーム弾ですが、油を積み込んだ爆弾と言っていいかもしれません。それが無数に東京に落とされ、8万人から10万人が焼き殺されました。おばあちゃん、おじいちゃん、家族、赤ちゃんから子供まで死んでいます。

アメリカによる原爆投下を考えてみましょう。昭和20年8月、広島と長崎に人類史上初めての原子爆弾が投下され、広島では14万人、長崎でも7万4千人がほぼ一瞬のうちに殺されました。東京大空襲と同じく、みんな普通に暮らす人々でした。
合わせて21万人ぐらいの死者ということです。この原爆は、わずか3週間前にアメリカ国内で初めて実験に成功し、まだ出来立てホヤホヤの最終兵器だったのですが、これを広島と長崎にアメリカは投下しました。アメリカの言い分は、戦争を早く終わらせるためでした。本土決戦、つまり日本の国土の中で戦争が始まれば、アメリカ人、日本人ともに膨大な犠牲者が出る。それを阻止するためには必要な判断だった。つまり、原爆投下は早く戦争を終結させるためにやむを得ない判断だという理由でした。
日本は敗戦を迎え、国土はアメリカを主力とした連合軍に支配され、占領は6年8カ月にわたって行われました。日本と日本人は歴史上初めて異民族の支配のもとに置かれたのです。日本と日本人は報道の自由、表現の自由という民主主義の基本的な権利さえ奪われ、占領軍はテレビはない時代ですから、新聞とラジオで日本はいかに間違ったことをしたのか、反省しなければならないのかという大キャンペーンを続けました。
日本の「民主主義化」でした。その後、80年余り、日本はその歴史の中にあります。
■日本の誇りとは
さて、やや重たい話の次は、突然、平安時代にタイムスリップします。『源氏物語』。みなさん知ってますよね。
書いたのは誰でしょうか。知っている人は手を挙げてください。そうです。紫式部です。彼女が生きていた時代は平安時代です。平安時代は、8世紀、794年から始まって、ざっと400年続きます。
平和な時代でした。そしてこの『源氏物語』が書かれたのは、ジャスト西暦1000年ぐらいだと言われています。今から1025年前です。
貴族階級の恋愛模様をベースに、心理描写、複雑なストーリー展開など、小説、そうです、文学そのものでした。清少納言の『枕草子』、とても優れた日記文学など、数々の女性作家が大活躍した時代なんです。同じ頃、つまり8世紀以降ですが、その同じ時代、ヨーロッパでどんな文学があったかと言えば、キング、王様や英雄、ヒーローをたたえる叙事詩的なもので、小説とはほど遠いものでした。
『源氏物語』に匹敵するような小説は全くありませんでした。それから400年も500年も後になって、『ドン・キホーテ』や『ロビンソン・クルーソー』が現れます。日本は西洋に先駆けてとてつもない早い時代に、小説という一つのスタイルを発明しているんですね。
その『源氏物語』は1925年、ちょうど100年前、イギリスのアーサー・ウェイリーという天才が英語に翻訳します。翻訳された『源氏物語』は瞬く間に大変な評判になります。シェイクスピアが活躍する500年前に、小説が東洋のジャパンで書かれていた、と。
西洋のインテリは驚いて、この〝源氏〟こそは「文学の古典だ」と、そのぐらい高い評価を受けます。私はこのことを知った時、私たちの祖先は、凄いな!と素朴に嬉しい思いがしました。また同じ時期の『万葉集』、これも皆さんよくご存知ですね。

これは王朝時代の貴族から普通の人々、辺境、国の外れで人々を守る防人(さきもり)まで、名もない人々のその和歌まで、集めて選んだ世界に類のない文学です。私たちの祖先が残した今に伝わる芸術、世界中どこにもなかったものを、私たちの祖先が生み出していたという事実に、素直に私は誇りを持ってもいいのではないかと思っています。さて、気絶するほど昔から、ちょっと戻って、今度は江戸時代にタイムスリップしましょう。
■江戸の先進的循環型社会
江戸は徳川幕府の時代ですね。ざっと260年続いたその時代、江戸時代は幕府が支配し、鎖国制度の中で士農工商という厳しい身分制度、とりわけお百姓さんは過酷な年貢を課され、食うや食わずの苦しい生活で、封建時代のとてつもなく息苦しい時代だということになっています。果たして本当なのでしょうか。
当時の日本の人口は、約3000万人と言われています。政治の中心は幕府のあった江戸で、武士が50万人、商人、さまざまな細工をする手工業者たちも含めて40万人と言われています。ざっと100万人都市でした。
江戸は政治の中心ですが、もう一方では大消費都市でもありました。そしてその時代、江戸は町人文化が繁栄した世界屈指の街でした。江戸の街は塵一つ落ちていないという清潔さ、縦横に水路、川が作られ、小さな船で移動もできました。
野菜を売ったり、魚を売ったり、またはタクシーのように至る所に小さな船で移動もできました。そしてその川はとても美しく、つまり人はゴミを投げ捨てたりしないので、魚も泳いでいたと言います。100万人都市の人々の毎日排泄する糞尿、うんこやおしっこはとてつもない量になりますが、それを捨てずに集める業者がいて、売ったり買ったりして、それがお百姓さんの元に行き、肥料として畑で使われました。
人々の食べかすや生ゴミなど腐るものも肥料にして使われました。最近、無駄のない循環型社会、サステナビリティ、持続可能性という言葉が言われますが、地球環境に優しいこうした生活スタイルは、日本人は江戸時代、今から400年も500年も前に循環型サステナビリティを実現していたのです。同じ時代のヨーロッパ、パリ、ロンドンも100万人近くの大きな都市がありましたが、この人たちは2階、3階から糞尿を、バケツから道路に平気で投げ散らしていたそうです。
私たちから見ると、とんでもないことですね。街にはネズミが走り回り、パリのセーヌ川は悪臭で人は近寄ることさえ嫌がったそうです。それで香水が発達したという話がありますが、それは本当かどうかは分かりません。
さてその時代、江戸と関西を結ぶ東海道という幹線道路がありました。江戸と京都は53次(つぎ)と言われる53の宿場、泊まる場所がありました。江戸の初期に整備されたと言われるこの東海道はざっと500キロ。宿場と宿場の間は大体4キロから8キロぐらい。江戸から京都までは歩いてざっと2週間前後。当時の人は1日30キロから40キロ歩いたそうです。
この500キロの区間を飛脚(ひきゃく)、手紙やら重要な書類を走って運んでくれる飛脚は、この江戸と京都を6日間で走り抜いたそうです。一里塚と言って4キロごとに目印が設置され、旅人はここまで来たからあと何日で京都に着けるか、何日で江戸に着くのかという計算もできたわけです。その一里塚と一里塚の間には必ずお茶屋さんがあって食事をしたり、または便所に行ったりできたようです。
こんな安全な幹線ルートはヨーロッパにはなかったようです。明治維新の後、日本でも蒸気機関車が走り始め、やがて東海道本線が走るのですが、江戸と京都53次のルートに線路はほぼ重なっていると言います。幹線道路があったので、鉄道建設のスピードも速かったと言われています。
京都は天皇、帝のおられる場所です。御所があります。その先の大阪、浪花は商取引、商いの、ビジネスの町でした。
蔵米(くらまい)と呼ばれるお米の倉庫が立ち並び、海産物の取引も盛んに行われ、とても繁栄した町です。お米については今で言う先物取引、デリバティブなどを使った活発な取引が行われ、それは幕府の公認するものでした。大阪で米の相場、米の値段が決まると、ビジネスとしてその情報は大阪から江戸に8時間後に伝わったと言われています。
わずか8時間です。これは「旗振り通信」と言って、見晴らしの良いところに中継地点を大量に作り、次々にその情報、取引の相場を伝えました。箱根の山は見晴らしの良いところがないので、人力で走り、なんと、大阪で立った相場の値段が江戸に8時間後には伝わったと言います。
この取引に関して言えば、先物相場と言うのですが、アメリカのシカゴ取引所で始まったのはざっと130年後と言われています。このシカゴの取引所には、「この取引所のルーツは日本の先物取引所である大阪が発祥地であり、世界で最初に整備された日本の市場を参考に開発されました」という英語の音声テープが流れているそうです。(福田和也著『大丈夫な日本』より)
その背景には和算、日本の算術という高度な数学の体系が独自に編み出され、微分積分まで解けたという素晴らしい数学的才能も貢献していたと思われます。
どうでしょう。私たちの祖先はとてもすごいことをあの江戸時代に始めていました。皆さん、どんな感想を持ったでしょうか。
そしてもう一つ、識字率、読み書きですね。識字率、これも江戸時代は同じ時代のヨーロッパに比べてとても優れています。男性で読み書きをできたのは7割から8割、女性も4割、トータルでもだいたい日本人の半分以上は読み書きができたと言われています。
同じ時代、イギリスは男が60%、フランスは50%と言われています。日本が外国より優れていたのは都市部の武士や富裕層、または町人だけではなく、田舎のお百姓さんまで、また女性にも文字が普及していたことです。明治維新以降、日本が西洋に追いつこうと懸命に努力していた時、識字率の高さが強い武器だったのです。ほとんどの人が字を読める、書けるということは進歩、進化するには絶対に必要な条件でした。
いわゆる寺小屋は当時全国に1万から1万5千あったと言われています。 ある研究者は、江戸時代、寺小屋は5万あったという説さえ唱えています。また江戸時代は、260から280ぐらいの地方の藩が幕府のもとにあったのですが、その中でも、佐賀藩のケースは、とてつもない例でした。
先祖代々、家老の子は家老、足軽の子は足軽という身分制があったのですが、佐賀藩は勉強、学問に対する熱意が実に高く、身分の高い家老の子どもでも、勉強ができなければそのお家が階級を落とされる、そういう厳しい藩でした。自分のお家を没落させたくない、そういう思いでみんな必死に勉強したようですが、身体を壊したりする人もいたそうです。とはいえ、江戸時代は、日本は貧しく息苦しく、過酷な日々を送っていたという面だけではなく、自由で、町人文化も様々に豊かに実り、日本独自の文化が発展した時代でもあったのです。
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