This post is also available in:
日本の若者の声を世界に発信する「Ignite」の第40回は、東日本大震災をきっかけに誕生した日米の若者のリーダーを育成する日米の官民パートナーシップ「TOMODACHIイニシアチブ」の同窓生、東北学院大学2年(当時)、浅野琥二郎さんが、3月14と15の2日間、能登半島沖地震の被災地を視察し、復興に携わる現地のリーダーらと交流した中で感じた思いを綴ったエッセイ「記憶の当事者として」を紹介する。

◇
記憶の当事者として
私は、東日本大震災で被害を受けた宮城県南三陸町出身で、現在は20歳となった。震災当時は4歳だったが、見慣れた町の風景が一変した光景や、周囲に広がっていた緊張と不安の空気は、今もなお鮮明に記憶に残っている。言葉で十分に説明しきれない年齢であったからこそ、感覚として刻まれた記憶であるとも言える。同時に、当時の出来事を断片的であっても言語として語ることができる、いわば「記憶の当事者」としての最後の世代に位置しているという自覚もある。
その後、復興していく町の姿を生活の中で見続けてきた。新たな防潮堤や公共施設が整備される一方で、かつての風景や人の営みが失われていく現実にも直面した。復興とは単に元に戻すことではなく、何を残し、何を変えるのかという選択の連続であるという認識は、この過程の中で形成された。
こうした経験を背景に訪れた能登で、私は復興のあり方を改めて問い直すこととなった。中でも印象的であったのが白米千枚田である。棚田は一枚一枚が細長く、狭い土地を最大限に活かすために築かれてきたものであり、平地に乏しい奥能登の「土地とともに生きる知恵」が凝縮されている。しかし現在、その価値はしばしば「美しい景観」として消費されがちである。実際には、崩れやすい地形を人の手で修復し続ける不断の営みの上に成り立っており、その継続そのものに意味がある。
東北の復興では、安全性や効率性が重視され、「元に戻すこと」が一つの正義として共有されてきた側面がある。一方で能登では、非効率であっても人の手で棚田を守り続けるという選択がなされていた。崩れたら直すという営みを繰り返すこと、それ自体を理解し継承していくことに価値が置かれている。この対比から、復興とは単なるスピードや合理性で測られるものではなく、人と土地の関係性をいかに未来へとつなぐかという営みであることに気づかされた。

また、能登では進路指導において「地域を出ること」が成功とされる風潮があるなど、地域に対する閉塞感や誇りの揺らぎも見られた。しかし、外から訪れた立場としては、その土地にしかない営みや価値が確かに存在していると感じた。故郷を離れたからこそ自らの地域の価値に気づくという経験と重ね合わせながら、地域の内側と外側での認識の差についても考えさせられた。
さらに、復興の過程には目に見えにくい力も存在する。制度や予算、法律、補助金といった枠組みは復興を支える基盤である一方で、現場の営みとの間に乖離を生むこともある。また、支援する側と受ける側との間に生じる期待のずれも、復興の難しさの一因となる。こうした複雑な要素が絡み合う中で、単なるリーダーシップではなく、課題を発見し、地域に根ざしたビジョンを描き続ける姿勢が求められている。
能登の復興は、単に元の姿へ戻ることを目指すものではなく、これからの社会が直面する課題に対する一つの実践の場でもある。人口減少や地域の持続可能性といった課題が深刻化する中で、小さな地域での試みが他地域への示唆となりうる。復興とは過去を取り戻す営みであると同時に、未来の社会のあり方を先取りする営みでもあるのではないだろうか。

筆者:浅野琥二郎
東北学院大学地域総合学部地域コミュニティ学科。2019年、中学2年時にオーストラリアに短期研修。2024年夏に「TOMODACHIサマー・ソフトバンク・リーダーシップ・プログラム2.0」に参加、米国で研修を受けた。エッセイをJAPAN Forwardに寄稿するにあたり、「東日本大震災の時は4歳だった。断片的であっても言語として語ることができる震災記憶の当事者としてエッセイを書くことにした」と言葉を寄せた。
This post is also available in:

