マレーシアを訪れ、Davidさんに案内される無国籍ネットワークユースの著者ら(著者提供)
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蒼く澄んだ海が広がっていた。
とあるマレーシアの港から小型ボートで十数分。水平線の手前に、粗末な木材を組み合わせた骨組みの上に家々が密集する「水上村」が現れた。私たちが初めて「無国籍者」の現実と正面から向き合った場所である。
私たちは今年、無国籍ネットワークユースのメンバーとして、マレーシアで無国籍者の実態を学ぶ研修に参加した。そして私たちを現地で導いてくれたのが、長年にわたってこの地の無国籍コミュニティを支援し続けているコーディネーターのDavidさんだった。
「Boss」と叫ぶ子どもたち
車で約一時間半、二車線で信号のない道をひたすら走った先に、ある港町があった。
Davidさんの車が到着した途端、多くの子どもたちが一斉に駆け寄ってきた。「Boss!」。口々に呼びかけながら、Davidさんに笑顔で挨拶する。そして私たちにも興味を持ってくれているようで、にこにこしながら近づいてくる。一群の男の子たちは車に来ると、自ら進んで荷物を運ぼうとしてくれた。
メンバーの青木がadidasのショルダーバッグを持っていた。車のドアを開けた瞬間、小さな男の子がさっとそれを背負った。バッグは彼の体より大きく見えた。青木が「大丈夫、自分で持つよ」と咄嗟に言ったが、彼はもう歩き始めていた。小さな手で大きなバッグを抱え、一生懸命に前へ進む。何度か手を貸そうとしても、彼はまったく足を止めなかった。
「How old are you?」と聞くと、「Eight」と答えた。
8歳。その一言が、青木の胸に刺さった。自分が8歳だったとき、何をしていただろうか。毎日特に考えることもなく学校へ行き、友達とくだらない遊びをし、家に帰ると甘えて泣き出していた。この8歳の男の子は、その姿を見ている19歳の青木には到底できないことを、何でもないように成し遂げていた。
後ほど、青木は彼に日本から持参したお菓子を渡した。彼は袋を受け取るとすぐに開けた。そしてまず最初に、袋を青木の方へ差し出した。海外のお菓子で、興味津々で、お腹も空いているだろうに。それでも彼は、最初の一口を譲ろうとした。誰かに教えてもらったのだろうか。それとも自分で発見したのだろうか。いずれにせよ、その小さな仕草に青木は胸を打たれた。ボートに乗るときも、彼は手を差し伸べてくれた。8歳の、紳士的な男の子。
言葉は要らない
現地では多様な言語が飛び交っていた。マレー語、バジャウ語、中国語、英語――それぞれが互いに通訳し合いながら会話は成立していたが、実のところ、言語はコミュニケーションの主役ではなかった。
挨拶は握手と笑顔で、賛成や満足はサムズアップで、感謝は胸に手を当てるジェスチャーで伝わる。私たちが覚えたマレー語はほぼ「Terima kasih(ありがとう)」だけだったが、それで十分だった。何かするたびに「Terima kasih」と「Thank you」を繰り返し、サムズアップとハートのポーズを交えていると、不思議と場の空気が和んでいく。
エンジン音が轟くボートの上では長話もできない。灼熱の太陽が言葉を奪っていく。それでも私たちは笑い合い、身振りで語り合った。言語の壁がほとんど問題にならないほど、この地の人々は身体全体で会話していた。
寺子屋は「確認の場所」だった
ボートを降り、はしごで床へ上った。海面までは約2メートル。エメラルドグリーンの海の上に、家と家が板でつながれている。板と板の間には大きな隙間があり、身長百七十センチの私でも大股を踏み出せば落ちそうになるほどだった。それでも子どもたちは、その上を何なくすいすいと駆け回っている。
この集落への外部者の立ち入りは、通常は制限されている。私たちが入れたのは、寺子屋がキリスト教会によって設立され、私たちが教会の許可を得たボートで訪れたからだ。飲料水はすべて外から購入しなければならず、電気もない。ガスコンロで沸かした湯が生活の水源だ。収入源は主に漁業だが、ボートの燃料費だけでも相当な額になる。それに生活必需品の費用が加わる。日常を維持するだけで、想像を絶する負担がある。

村長と挨拶をし、Davidさんが持参したチョコパンとカップラーメンをいただいた。温かいもてなしだった。
案内された村の寺子屋には、幼稚園ほどの幼い子を含め、約90人の子どもたち。それを教えるのは、わずか2、3人の教員。朝のホームルームが始まると、子どもたちは床に座り、先生と元気よく挨拶を交わした。
活動の後、Davidさんは私たちにこう頼んだ。子どもたちや建物の写真をSNSになるべく投稿しないでほしい、と。この地に暮らす人々が置かれた不安定な立場を考えると、その慎重さは当然だった。
過去には、無国籍者のコミュニティが突然の立ち退きを余儀なくされた例もあったという。今もDavidさんは、かつて交流のあった人々の消息を知らないままでいる。
あの朝のホームルームは、単に授業の始まりを告げる儀式ではなかった。明日、自分たちの居場所さえ保障されない日々を生きる子どもたちにとって、寺子屋とは互いの「無事」を確かめ合える、かけがえのない場所だったのだ。
その後、子どもたちとの交流の時間が設けられた。私たちが用意したのは折り紙、「だるまさんがころんだ」、ジェスチャーゲーム、そしてバナナおにごっこ。言葉は通じない。それでも子どもたちは、声を上げて笑い、身振り手振りで必死にこちらに伝えようとしてくる。折り紙では、みんなで一緒に紙飛行機を折った。一人ひとり手を取りながら、何とかして伝える。そして完成したとき――「Satu, Dua, Tiga!(一、二、三!)」の掛け声で、一斉に飛ばした。紙飛行機が宙を舞うその瞬間、言葉が通じなくても何かが通じ合えた、と感じた。子どもたちの笑顔は本当に屈託がなく、気づけば私たちの方が、彼らから勇気と希望をもらっていた。
少女の死と、青い海
水上村を後にした私たちは、続いて船で近くの別の島へ向かった。そこにはDavidさんが自ら設立した、もう一つの寺子屋があった。
島に上陸するとすぐ、船に積んできた水と食料を教室に運び込む。そしてDavidさんの声で、子どもたちとのホームルームが始まった。その日のテーマは「アメリカとイランの戦争」だった。
彼は決して、どちらが正しくどちらが間違いとは言わなかった。ただひたすら、「戦争とは愚かなものだ。隣人を愛すること。それだけを忘れないでほしい」と、英語で何度も繰り返した。通訳の先生が子どもたちにわかる言葉に変換していたが、Davidさんの熱意だけで、子どもたちの視線はまっすぐに彼へと注がれていた。
授業の後、私たちは島の砂浜で子どもたちと走り回った。屈託のない笑顔、透き通った瞳。まるで目の前に広がる海のようだった。
そのとき、前夜にDavidさんが話してくれたことが、脳裏に蘇った。
一人の無国籍の少女のことだ。彼女は心臓病を患っていたが、国籍がないため、公的な医療支援を受けることができなかった。しかしDavidさんのつながりで、韓国で無料治療を受けられるチャンスが訪れた。渡航費も滞在費も、全額援助してもらえるという、千載一遇の機会だった。
それでも彼女は、治療を受けられなかった。
無国籍者であることを理由に、海外渡航の許可が下りなかったのだ。
彼女はそのまま、この世を去った。
一枚のパンと、妹の涙
別の日、私たちはDavidさんとともに、沖合に浮かぶ村々を船で巡った。Davidさんが毎月行っているという食料・水・衣類の配給に同行するためだ。
「一人一個」というルールのもと、パンと水の配給が始まる。しかし、もらったパンをすぐに隠してもう一度並び直す子も現れた。
そのとき、一人の少女が前に出てきた。彼女は二度目の配給を静かに断られると、躊躇なく隣にいた3歳ほどの妹の手を引いて、Davidさんの前へ押し出した。その勢いに驚いた妹が泣き出す。少女は一言も言わなかった。ただ、「この子ならもらえるかもしれない」という純粋な計算が、その行動にあった。
一枚のパンに、家族を守ろうとする少女の必死さが凝縮されていた。配給の場はやがて混乱し、Davidさんは「落ち着いて囲んでくれれば全員に渡す」と語りかけた。しかし秩序は長続きしなかった。これはおそらく、毎回繰り返される光景なのだろう。
薬も配った。海上生活では、発熱だけでも命取りになることがある。食料を集めるのは主に女性と子どもたちだった。男性は漁を生業としているが、「陸では生きていけない」と感じているため、島を離れることはほとんどないのだという。
700人の「存在しない」子どもたち
研修ではその港町だけでなく、別の地域にある学校も訪れた。
その学校は小さな建物だったが、700人以上の「書類を持たない子どもたち」が通っていた。小学生から中学生相当の年齢まで幅広く、教室は活気に満ちていた。先生たちは騒がしさに苦笑いしながらも、子どもたちは私たちと遊ぶことを心から喜んでくれた。
現地コーディネーターから聞いた話は、構造的な問題を浮き彫りにしていた。多くの子どもが無国籍になる理由は単純だ。親が婚姻届を出していないため、出生届が受理されないのだ。地域の慣習では結婚式そのものが「婚姻」の証明であり、法的な書類の必要性を知らない親が多い。さらに、出生届には親自身の証明書類が必要だが、「移民」として暮らしてきた親にはそれがない。
誰かの手続き上のミスが、子どもの一生に影響する。彼らは生まれながらに「存在しない人」として扱われるのだ。
青い海は、なぜ無常なのか
研修から帰国してしばらく後、メンバーの陳怡婷がその島で出会ったある少女に連絡を取った。電気も水道もない島で育った彼女は、しかし今の時代の十代の子と変わらない一面を持っていた。化粧をし、WhatsAppに自撮りをあげ、友人の誕生日を祝うメッセージを送っている。モバイルインターネットを通じて、島の外の世界と繋がろうとしている。
国籍を持たない彼女が、スマートフォンの画面越しに見ている「外の世界」とは、どんなものなのだろうか。そして彼女は、「外の世界」から自分がどう見えているか、知っているのだろうか。
砂浜の子どもたちと遊びながら、私(田哲)はずっとある事実を頭の隅に抱えていた。目の前の子どもたちと良い思い出を作りたい。今この瞬間だけは、ただ笑っていたい。そう願えば願うほど、あの少女の話が、Davidさんが語った行方不明の村人たちの話が、妹を押し出した少女の沈黙が、頭から離れなかった。
子どもたちの瞳は、砂浜の向こうに広がる海と同じくらい、澄んでいた。
それでも、私の中に違和感が居座り続けた。
「無国籍者への理不尽な扱いによって苦しむ者がいるのに、今目の前の海は、なぜこれほど無常なまでに青く澄んでいるのだろうか」
その違和感の正体を、私はまだうまく言葉にできない。ただ、この問いを胸に持ち帰ることこそが、今の自分にできる最初の一歩なのだと感じている。
あのお菓子を私たちに差し出した八歳の男の子。妹の手を引いた少女。WhatsAppで世界を覗くあの島の少女。彼らが今この瞬間も生きているこの現実を、一人でも多くの人に知ってほしい。
「国籍」という、私たちが生まれながらに持っている当たり前のものを、持てないだけで、命さえ奪われる人々がいる。
あの日の海の青さとともに。
筆者:田哲、青木桜、陳怡婷(無国籍ネットワークユース)
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