呉市・清水ヶ丘高校で講演する太田英昭JAPAN Forward代表理事=2025年10月14日(©JAPAN Forward)
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≪JAPAN Forwardの太田英昭代表理事(産経新聞顧問)は2025年10月14日、広島県呉市にある清水ヶ丘高校で、同校と姉妹校・呉青山中高の生徒計600人を前に「日本と日本人について」と題した講演を行った。講演は、清水ヶ丘高校看護学科の1年生が看護実習をスタートするにあたり、ナースキャップを頭にいただく戴帽式の後に行われた。当日、時間の制約で準備した内容を短縮して講演を実施したため、ここに準備した講演内容の全文を掲載する。掲載にあたり、なお、JAPAN Forwardは学校側の了解を得ている。≫

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日本と日本人について
ただいま、ご紹介をいただいた太田です。 先ほど、看護師を目指す皆さんが、病院実習に臨む直前に決意を示す、また、誓いを立てるための戴帽式を、初めて拝見いたしました。弱い人のために尽くすことを、自分の将来の仕事と決めた皆さんのその心に、私は深く感動いたしました。人のために生きるということは、口では言えても簡単ではありません。
あなたの行為が社会に役立っているかどうか、君の行為が社会に役立っているかと、昔々私が高校生の頃、先生に言われたことを思い出していました。私自身、社会に役立っているのか。人のためになっているのか―。それを厳しく自分に問い直した式でもありました。
さてここで一つ質問があります。皆さん、電車やバスに乗って座っている時に、自分の前や近くに、お年寄りや体の不自由な人、またはお腹の大きいママ、そういう人たちがいた時に、自分が座っていてもさっと立ち上がって、すぐにどうぞと席を譲るようにしている人、そういう人は手を挙げてみてください。ありがとうございます。
清水ヶ丘高校、そして青山中学、高校の皆さんが、そういう時にすっと立って席を譲る、そんな人がこんなにたくさんいること、とても嬉しいです。他の皆さんも、普段から心がけて席を譲ることを本気で始めると、おそらく皆さんの制服を見て、皆さんの学校だと、呉の町の人の間で評判になります。呉の他の学校にも広がり、もしかしてすぐ隣の広島市にも伝わり、広島県全体で若者たちがそういう風になっていく。

それはとってもいいことだと思います。私は仕事で昔からよく京都に行きましたし、観光でも行きますが、せいぜい行っても2日か3日ぐらいで、京都の町の土地感覚を自分のものにできず、いつかたっぷりと京都で過ごして、京都の町に詳しくなろうと思っていました。3年ほど前、そういう機会がありました。1カ月ほど京都で暮らしました。
京都は観光客がとても多い町で、バスの路線が便利で、よく使いました。結構混んでいる時でも、お年寄りや体の不自由な方が立っていると、必ずさっと立ち上がって、どうぞと席を譲る若者を何度も何度も見かけました。よくよく観察してみたら、そのほとんどが韓国から旅行でやってきた若者たちだったんです。
韓国は儒教の教えが今も残り、年上や目上の人にしっかり敬意を示すという文化が根づいている。とはいえ、やはり感心しました。なぜなら、私が東京で電車や地下鉄を使う時、優先席にはしばしば若い人たちが座っています。
その多くはスマホでコミックかゲームを楽しんでいます。そうではない人は居眠りをしています。くたびれているのかもしれませんね。
でも、先ほどの戴帽式に戻りますが、やはり人のために何ができるか、ふだんから、できることから行うというのがとてもいいのではないか、私はそう考えます。
さて、私は今年の12月には79歳になります。皆さんから見るとおじいちゃんの世代です。
■私の半生
きょうは、おじいちゃんの話に付き合ってください。私が生まれたのは、樺太(カラフト)という島です。樺太、聞いたことのある人は手を挙げてください。
いまはロシアの領土で、サハリンと呼ばれている島です。日本は今から120年前、明治時代に日露戦争でロシアとの戦争に勝って、その島の南半分を日本の領土にしました。その後、日本人がどんどん移住して、多い時には樺太全体で40万人が暮らしていたようです。
その樺太の街に、私は太平洋戦争、日本と日本人は大東亜戦争と言っていたのですが、その戦争に負けた翌年に生まれました。私は生まれて半年で、母に背負われ、家族と一緒に日本に命からがら引き揚げてきました。 私の家はパンとお菓子を作って販売する、そういう家でした。
裕福に暮らしていたようですが、ソ連、今のロシアですが、日本は戦争に負けて、私の家も土地も財産も全て失って、家族は引き揚げ船で北海道に渡りました。北海道の最北端は、稚内の宗谷岬ですが、晴れた日には樺太、今のサハリンの南端、南の端が見えるほど近いのです。その宗谷岬に立ったことがありますが、いつかは自分の生まれた町に行ってみたいと思っていましたが、6年前に実現しました。
成田空港からわずか2時間、あっけないほど近かったです。私の両親、祖父母が暮らしていた家を、当時の地図を頼りにガイドさんに協力してもらって探しました。樺太は森林資源、パルプが豊富で、製紙会社王子製紙が6つの工場で紙を生産し、本州に送っていました。
日本の紙の8割を作っていたそうです。私は家族が住んでいた町に向かい、生まれた家を探しました。王子製紙の巨大な工場は、大きな煙突が折れたまま、見るも無残な廃墟となっていました。
その近くにあったという商店街のあたりも草ぼうぼうで、それでも地図にあった川や道路跡から、ここがそうだろうという場所を特定しました。「そうか、ここで俺は生まれたのか」と思いながら、祖父母、両親の位牌をとり出して、しばらくそこに佇んでいるうちに、涙がポロポロと出てきました。私の家族は先ほどお話したように、北海道にたどり着き、親戚を頼って転々としながら、今は大きな空港のある千歳に落ち着き、家業であるパン、お菓子の店を始め、私はそれを手伝いながら、高校まで千歳に暮らしました。
大学に進学して、東京に出て今年が60年目です。大学の3年生頃から、新聞かテレビで仕事をしたいと思い、一生懸命勉強しました。運良くフジテレビに入りました。
大学の4年間は、仕送りだけでは生活費も学費も足りず、肉体労働が一番アルバイト代が高いので、水道工事の道路掘りや、真夜中、駅で貨物列車の荷物の積み替えをする重労働など、頑張りました。アパートは3畳1間でした。台風が来ると揺れて、ギシギシ音が鳴る木造のアパートで、家賃は4500円、共同トイレ、共同炊事場でした。トランジスタラジオで、深夜放送を聞くのが楽しみでした。テレビなど部屋にありません。
ラジオでは、映画の試写会の募集があり、よく応募の葉書を出しました。私は初めて、当たって試写会というものに行きました。渋谷の大きな劇場で、赤いカーペットが敷き詰められ、私はドキドキしながら、初めての試写会を経験しました。
1960年代の後半、日本が高度成長の時代、右肩上がりで豊かになる道を突っ走り始めた頃です。日本人の多くが、将来に希望を持っていた時代で、私もその一人でした。フジテレビに入社したのは1969年。
もう50年以上も前になります。私のその時代の話は、今回皆さんの前で講演するという機会をいただいたので、感謝の気持ちをこめて学校に贈った本の中に、私が4年前に出版した、『フジテレビプロデューサー血風録』という本5冊も入っています。私がフジテレビの番組を作っていた頃を中心に書いた本なので、読んでいただければ嬉しいです。
他に私たちよりも、世代がいくつも上、もっと先輩たちですね、その人たちがいかに素晴らしい人生を送ったか、いかに優れた仕事を成し遂げたか、そういった人々の評伝、物語も入っています。もし読む機会がありましたら、感想文を理事長や校長先生に送ったら、とても喜んでくれるのではないでしょうか。
私はフジテレビでは長い間、ディレクター、プロデューサーとして番組を作り続けました。「めざましテレビ」や「ザ・ノンフィクション」というドキュメンタリーなど、様々な番組を作り、その後に経営を任されました。さらに、グループの産経新聞でも仕事をした後、今は「JAPAN Forward(JF)」という英語のニュースサイトを運営しています。
JAPAN Forwardは、日本の素顔を世界に発信しています。文化、エンターテインメントから先端のテクノロジー、安全保障まで、毎日、英語でニュースを配信しています。世界の人々に日本と日本人を理解してもらおうと、私が資金を集めて、9年前にスタートしたインターネットニュースメディアです。このJAPAN Forwardを、皆さんの学校の理事長でもある山本さんがサポート、応援してくれていまして、その縁で私が今日ここにいます。
今日は、ぜひ覚えておいてほしい話をいくつもしますので、一生懸命聞いてください。人の話を聞くときは、あまり面白くなくても大きくうなずいたり、メモを取ったりする。講師は自分の話を本気で聞いてくれると思うと元気になります。私のフジテレビ時代、新人研修でみんなに話していたアドバイスの一つです。
■呉市のこと
さて、呉の町に最後に来たのは、大和ミュージアムがオープンした20年くらい前です。呉といえば、信友直子さんを思い出します。
信友さんは『ぼけますから、よろしくお願いします。』という、信友さんのお父さんとお母さんの物語をドキュメンタリー映画で撮影し、公開しました。もう7、8年前になります。この作品は高い評価を得て、信友さんは今も全国いたるところから講演を頼まれ、飛び回っています。
信友さんと私は、私がプロデューサーで、信友さんがディレクターという関係でずいぶん長いこと仕事をした仲間なんです。今もたまに連絡が来ますが、この呉の片山中学校の出身です。そして呉といえば、やはり近くの昔の海軍兵学校のあった江田島をやはり思い出します。今は海上自衛隊の幹部候補生学校ですね。そして何よりも、私の中に日本の歴史として深く刻まれているのは、東洋一の軍港と言われた呉から、昭和20年3月28日に沖縄に向けて特攻出撃した戦艦大和のことです。
もう戦争に使う油、石油も乏しくなってきて、大和は片道の燃料しか積み込むことができないまま、沖縄に向かう特攻作戦でした。呉から出航した大和は、途中で米軍の激しい爆撃によって大破して沈没しています。戦艦大和に乗り組んでいた人々は、偉い人から現場まで乗組員は3332人で、そのうち戦死者は3056人。
3332人のうち生き残ったのはわずか276人です。その生き残りの中の一人、吉田満(みつる)さんという人が、『戦艦大和ノ最期』という記録を残しています。その一節を紹介します。
少尉、中尉、大尉たち、みんな20代です。呉を出た後、何日間の間、毎晩のように仕事が終わった後、部屋に集まり、死ぬことはわかっているのに、なぜそこに向かって突き進んでいくのか、なぜなのかということについて、本気の議論をしていました。その議論の中身が、この『戦艦大和ノ最後』という本に紹介されています。
そこを引用します。兵学校出身の少尉、中尉、口を揃えて言う。「国のため、君のために死ぬ。それでいいじゃないか。それ以上に何が必要なのだ。持って瞑すべきじゃないか」
学徒出身、徴兵されて、軍の仕事に就いた大学生、若者ですね。色をなして反問する。「君、国のために散る。それはわかる。だが一体、それはどういうことと繋がっているのだ。俺の死、俺の生命、また日本全体の敗北、それをさらに一般的な、普遍的な価値に結びつけたいのだ。これら一切のことは、一体何のためにあるのだ」
「それは理屈だ。無用な、むしろ有害な、へ理屈だ。貴様は特攻隊の菊水のマークを胸につけて、天皇陛下万歳と死ねて、それで嬉しくはないのか」
「それじゃあ嫌だ。もっと何かが必要なのだ」。ついには鉄拳の雨、喧嘩ですね。
乱闘の修羅場、取っ組み合いですね。「よし、そういう腐った性根を叩き直してやる。」その後、この必ず負ける、必ず死ぬという論議の傍らから、臼淵大尉という人が、当時21歳だったようですが、薄暮れの海を見ながら、低く囁くように言ったようです。
「進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。 日本は進歩ということを軽んじすぎた。
私的な潔癖や徳義にこだわって、本当の進歩を忘れていた。破れて目覚める。それ以外にどうして日本が救われるか。
今、目覚めずして、いつ救われるか。俺たちはその先導になるのだ。日本の新生に先駆けて散る。まさに本望じゃないか。」
こういうことを臼淵大尉は話したんですね。この考えを聞いて、連日続いた、生きる、死ぬ、死ぬ、生きる。その意味をめぐる議論は、一応の結論となり、あえて臼淵大尉に反駁、反対を加えるものはなし、ということだったようです。
私は何度もこの本を読んでいますが、この若者たちが戦死して80年経ちました。日本人は果たして目覚めたのか。日本は目覚めているのか。
この言葉がいつも頭の隅っこにあります。
呉のことではもう一つあります。この呉を舞台にしたアニメ映画『この世界の片隅に』が、もう何年前でしょうか、大変評判になりました。
私は主人公のヒロイン、すずさんが好きです。素直で、ひたむきで、人のことをよく考え、諦めずに真っ直ぐに生きる。自分のことを省みながら、いつも人に対する優しい目配り、こんな人は本当に見たことがありません。
すずさん、私が生まれ変わったら一緒に暮らしたい、結婚したいなと思うようなヒロインでした。あの戦争の時代に青春から結婚、そして様々な人々と暮らしながら必死に生きていく、あのすずさんのことを思い出します。呉にいて、呉で暮らし、広島に原爆が落とされた日、あのキノコ雲を見るようなシーンがありました。
すずさんが結婚した相手のお母さん、義理のお母さんの言葉は、今も私の頭に残っています。それは、「みんなが笑うて暮らせりゃええのにねえ」という言葉です。あの戦争が終わって、もう80年経ちましたが、今の日本、そして世界はそうなっているでしょうか。
(中)に続く
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