紙芝居を披露するありし日の杉浦さん(大山文兄撮影)
This post is also available in:
全国でたった一人とされていた、プロの紙芝居師、杉浦貞(ただし)さんが5月28日、95歳でこの世から旅立った。ジョン万次郎の創作紙芝居を米国でも披露、その生き様は多数のメディアに取り上げられた「名物おっちゃん」だった。
48歳で紙芝居の道に
5月31日、杉浦さんが子どもたちに、紙芝居を披露してきた大阪の天六とよばれる下町で葬儀が営まれた。祭壇横には、紙芝居が来たことを知らせる拍子木、愛用の帽子などが並んでいた。長男の賢一さんは「紙芝居に命を懸けた人生でした。天国でも紙芝居をしていると思います」と振り返った。
杉浦さんは、地震被害があった能登半島の石川県羽咋市出身。職を求めて20歳の時に大阪にやって来て、初めて紙芝居と出会う。
「仕事は汗水流すもんやと思っていたけど、(紙芝居師は)口だけで子どもやおばちゃんたちを集めている。この職業はなんやと思った」

杉浦さんは染色会社に勤めながら何度も紙芝居を見に行った。しかし、その会社が48歳で倒産。職を失った杉浦さんは、これまでボランティアでしていた紙芝居で身を立てることを決意する。
街頭紙芝居師は、紙芝居を見るために集まった子どもたちが買う水飴などの駄菓子の売り上げが収入源だ。最盛期の昭和30(1955)年当時は全国に約5万人いたが、テレビの普及や塾などで子どもも忙しくなり、紙芝居師の数は減っていた。


杉浦さんが始めた1980年当時、全国で20~30人程度、大阪にはほとんどいなかったが、それが杉浦さんが紙芝居の道に入る後押しとなった。中学生と高校生とまだ育ちざかりの子どもを抱えた転身に、家族は大反対だった。
ジョン万次郎漂流記の創作紙芝居で米国へ
紙芝居は、映写幕にろうそくで絵を映しだす、江戸時代の「写し絵」が原型といわれている。昭和初期、現在の絵物語式の紙芝居が誕生した。10枚~20枚の絵を次々と抜きながら、読み聞かせる日本ならではの芸能だ。
金色のどくろの顔に漆黒のマントをまとったヒーローが悪と戦う「黄金バット」(1931年)などのヒーロー物や童話などが紙芝居の主流だったが、杉浦さんは新作も作った。

けがを克服して「マサカリ投法」で人気者だったプロ野球選手、村田兆治氏本人に直談判して紙芝居にする許可をとり、1988年に「村田兆治物語」を完成、野球場で演じて、大人気になった。
漂流してアメリカの捕鯨船に救われ、米国で初めて日本人として教育を受け、通訳として日米の懸け橋となったジョン万次郎(1828-1897)の生涯も紙芝居化、1992年には米・ボストンで行われたジャパン・フェスティバルに招待され、海外公演も行った。活動は大阪にとどまらなかった。

おっちゃんは私の伯父、一緒に被災地へ
杉浦さんと紹介してきたが、実は私の父の兄、伯父だ。全国でただ一人のプロの紙芝居師として、様々なメディアに取り上げられ、私がいた産経新聞も何度も取材していた。しかし、私は親族ということで気恥ずかしく、距離をおいていた。ところが、東日本大震災の翌年、東北・山形県の支局長だった私のもとに、伯父から「美香、被災地に行くからな」と連絡があった。
避難所の炊き出しに並ぶ被災者のニュース映像を大阪で見て、いてもたってもいられなくなった伯父は、震災の前年、小惑星「イトカワ」から世界で初めてサンプルを地球に持ち帰ることに成功した日本の探査機「はやぶさ」開発の創作紙芝居で、被災者を励ますという。開発の中心人物である川口淳一郎氏は東北の青森県弘前市出身だった。

希望のストーリーを被災地に届けるため、慣れないロケット用語を調べ約8カ月かけて完成させ、一人、岩手や宮城の被災地の仮設住宅や集会地を回り始めた。私は宮城県と福島県の仮設住宅に同行した。伯父を取材するのは初めてのことだった。
「応答せよ、はやぶさ、応答せよ」。伯父の太い声が集会所に響きわたった。集会所は子どもの姿はなく、ほとんどがお年寄りだ。

「俺も相当年やけど、俺より若い人が元気をなくしている。大変な思いをしてきた皆さんに顔を上げてほしいやんか」。そのとき、伯父は81歳。幼少期を思い出し「なつかしい」と涙を流す被災者もいた。

伯父が伝えたかったこと
葬儀から数日経って訪問した伯父の自宅には、伯父が収集した何万枚もの紙芝居や、創作のための膨大な資料が残され、長男の賢一さん、次男の将勝(まさかつ)さんが整理にあたっていた。
「母がパートで大学に行かせてくれたようなものだった」と賢一さんは振り返った。家族は苦労の連続だった。弟子もいたが、妥協を許さない伯父に最後までついてくる人はいなかった。息子2人も紙芝居には深入りしなかったという。

伯父はふざけたり、悪さをする子どもは、親の前でも容赦なく叱りつけたが、不思議と子どもたちから「おっちゃん」と慕われていた。育児に悩む親の相談相手にもなっていた。新型コロナの感染が拡大する90歳まで街頭に立った。

「紙芝居にははいあがる力がある。人生そのものや。生きる力になる。紙芝居は真剣勝負なんや」。子どもだからといって手加減はしなかった。生前、伯父が私に語った言葉だ。

葬儀があった5月31日、奇しくもふるさとの羽咋市で、本州初めてとなる国の特別天然記念物、トキの放鳥があった。いったんは絶滅したが、野生下での繁殖復帰を目指す。伯父が元気だったら、トキをテーマにした希望のストーリーの紙芝居を作り、東日本大震災の時のように、能登沖地震の被災者たちの元を訪れていたに違いない。

亡くなる25日前の5月3日、95歳となった伯父は自筆の絵と文を残していた。
「生きるとは死ぬことなり!我が人生はは(果)てしない!105歳 残り10年を生きるぞ!」
拍子木を打ち鳴らし「紙芝居を始めるよ」という伯父の声が聞こえたような気がした。
筆者:杉浦美香(Japan 2 Earth編集長)
This post is also available in:

