安倍晋三元首相
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ウイグル人民主化活動家で、1989年の天安門事件の学生指導者の一人、ウアルカイシ氏がJAPAN Forwardに寄稿し、日本の対中意識の変貌について指摘した。日本語訳は以下の通り。
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2010年、私は東京の中国大使館の警備柵を乗り越えた。北京当局から指名手配されていた元学生運動指導者として自ら出頭し、世界各地で亡命生活を余儀なくされている民主活動家たちの窮状に世間の目を向けさせる――。その試みは結果的に失敗に終わったが、その時点で私には二つの結末しかないと分かっていた。
中国当局の手に落ちるか、日本の当局に拘束されるかである。
実のところ、私は内心、日本側に身柄を確保される可能性が高いと踏んでいた。もし中国側に拘束されていれば、疑いなく中国共産党の監獄システムの中に消え、その後の人生をそこで過ごすことになっていただろう。
幸いにも、私を取り押さえたのは日本の警察だった。私は現行犯で拘束され、日本の法律に基づいて処理された。
あの日のことを、その後何度も思い返してきた。中国のような独裁国家では、法は権力を行使するための道具にすぎない。今日、香港の出版人である 黎智英(ジミー・ライ)氏が悲劇的な境遇に置かれているように、もし私が中国にいたなら、長く獄中に閉じ込められていたに違いない。
これに対し、民主主義国家において法とは、本来、権力を制約するためのものである。少なくとも、理想はそこにある。
手を差し伸べた国
東京で私は、一人の人間として敬意をもって扱われた。数日間拘束されたものの、収容されたのは快適な留置施設であり、その間には長年その名を耳にしていた日本の著名作家・村上春樹氏の小説を初めて読む機会にも恵まれた。台湾では村上作品への人気が高く、私は以前からその名を聞き続けていたのである。
日本を訪れたのはその時が初めてではなかった。1989年の天安門事件後、中国当局によって祖国を追われた私は、まだ若く、流血の惨事を恐れ何とか回避しようと奔走した学生運動の中心人物の一人だった。
その後、米国へ長く滞在する前、私は香港やフランスに身を寄せた。そして日本を訪れたのも、観光客としてではなく、亡命民主活動家としてであった。
私はウイグル人として、中国社会の中で育った。国籍こそ中国だったが、事実上「指名手配犯」の烙印を押された身として、自らをこの国の外部者のように感じていた。人生の残りを故郷なき漂泊者として過ごすことになるのではないか――そんな思いを抱いていたのである。
だが、日本は私の予想を覆した。政治家、研究者、記者、そして市井の人々までが、多くの日本人にとって直接出会うことすらないであろう中国の学生世代の運命に関心を寄せた。そして私自身の歩みにも耳を傾けてくれたのである。
その時に築かれた友情の中には、30年以上を経た今なお続いているものも少なくない。感傷的に聞こえるかもしれないが、その経験を通じて一つの確信を得た。国家の本質は、誰の側に立つことを選ぶかによって明らかになる――。日本は、その時、自らの答えを示したのである。
大いなる誤算「対中幻想」
もっとも、その間も私が東京で交わすあらゆる議論には、常に一つの「もし」が付きまとっていた。
それは、日本の政治・経済エリート層が、世界中で共有されていたある幻想を見抜けるかどうか、という問いである。
その幻想とは、経済交流と関与を深めれば、中国はいずれ国際社会の責任ある一員となり、国際ルールを尊重する国家へと変化するという期待だった。
私は当時から、その賭けは誤りだと確信していた。そして耳を傾けてくれる政治家や報道関係者には、機会あるごとにそう訴えてきた。
今になって、自らの見立てが正しかったことを誇る気持ちはない。最悪の結末について正しかったとしても、そこに栄誉など存在しないからである。
中国は豊かになった。しかし、多様性や自由な価値観を受け入れることはなかった。むしろ中国共産党は国内統制を一段と強化し、対外的にも影響力の拡大に乗り出した。経済発展によってもたらされた富は、中国を自由化へ向かわせるどころか、国際ルールを軽視しても構わないという自信を増幅させたのである。その結果、中国は今日、第二次世界大戦後に築かれた国際秩序そのものを時代遅れの遺物であるかのように公然と否定するまでになった。
長年にわたる莫大な投資と国際社会の期待を受けながら、中国共産党総書記の習近平氏は今、「100年に一度の変革の機会」が到来したと語り、権威主義体制の指導者や既得権層に結束を呼びかけている。しかし、その変化は自由や民主主義の拡大を意味するものではない。中国共産党が志向する統治モデルを世界規模で広げようとする動きであり、国際社会にとってはむしろ後退を意味する変化なのである。
安倍氏が発した戦略的警鐘
だからこそ、2022年7月に凶弾に倒れた故・安倍晋三元首相の存在は重要だった。そして、その意味は今なお失われていない。
安倍氏の真に注目すべき功績は、首相在任中の政策運営だけではない。むしろ象徴的だったのは、首相退任後の2021年12月に行った講演で、「台湾有事は日本有事であり、したがって日米同盟の有事でもある」と明言したことである。
日本の憲政史上最長の在任期間を誇る首相経験者が発する言葉は、単なる政治的レトリックではない。安倍氏ほどの影響力を持つ政治家による発言は、長年変わることのなかった国家戦略上の潮流に意図的な変化を促す行為であり、日本国内のみならず国際社会も耳を傾けざるを得ない重みを持つ。
そして何より、一度発せられたその言葉は、もはや取り消すことのできない現実認識となった。地図を広げれば分かることだが、安倍氏は地政学が示す自明の事実を言語化したにすぎない。沖縄や先島諸島は台湾の至近に位置しており、台湾海峡で軍事衝突が発生すれば、日本が望むか否かにかかわらず、その影響圏の内部に組み込まれることになる。安倍氏の発言は、中国への対決姿勢をあおるものではなく、日本の安全保障環境に関する現実を直視すべきだとの警鐘だった。
警鐘から政策へ
安倍氏がその発言を行ったのは首相退任から16カ月後であり、政権の外に身を置く立場だった。国家としての正式な方針を直ちに拘束することなく、安全保障論議の前提そのものを動かす余地があったのである。しかし、その発言は確実に変化を生み出した。安倍氏の発言は、後の政策転換へ向けた最初の号砲だった。そして三代の首相を経た後、圧倒的な選挙勝利によって政権を掌握した 高市早苗首相が、その号砲を正式な国家政策として引き継ぐことになった。

高市首相は戦後最大規模の政治的信任を手にしている。そして安倍氏が政権の外から語ることしかできなかった内容を、今度は政権の中から、より明確かつ踏み込んだ形で語った。
2025年11月7日、高市首相は、中国軍の支援を受けた台湾封鎖が実施された場合、日本にとって「存立危機事態」に該当し得るとの認識を示した。「存立危機事態」とは、2015年の安全保障関連法で定められた法的概念であり、日本が集団的自衛権を行使するための前提条件となる極めて重要な基準である。
当然ながら、中国政府は強く反発した。北京は首相発言の撤回を求めたが、高市氏は応じなかった。安倍氏が「口にすることを可能にした」安全保障上の現実認識を、高市氏は「政策として位置付けた」のである。政権の外から発せられた一つの問題提起が、政権の中で具体的な国家方針へと昇華された。その流れは一貫している。その結果、中国と台湾を巡る軍事的緊張は、もはや単なる仮説上のシナリオではなく、日本の安全保障政策において現実の前提として扱われる段階へと移行したのである。
防衛線を維持するために
台湾有事とは、いわゆる「第一列島線」をめぐる有事でもある。この列島線には二つの出入口が存在する。北側の門を押さえるのが日本であり、南側の門を担うのがフィリピンである。ルソン島やバタン諸島はバシー海峡を挟んで台湾と向かい合っており、中国人民解放軍海軍にとって、この海域を掌握することは南方から接近する米軍を阻止する上で不可欠な条件となる。
北京は長年にわたり、同盟国を一国ずつ個別に相手取ることを前提に戦略を構築してきた。しかし、日本、フィリピン、台湾が連携すれば、第一列島線の北と南の両方の出入口が閉ざされることになる。これは台湾にとって決定的な意味を持つ変化である。多数の国々が消極的に参加する緩やかな連合ではない。真に当事者意識を持つ少数の国・地域による結束だからだ。
安倍氏は、地域の安全保障環境が変化する中で、日本が再び主体的な役割を果たす可能性を示唆した。一方、高市首相は、それをもはや議論の対象ではなく、当然の前提として位置付けた。台湾を支える防衛線は今まさに構築されつつある。それは、日本、台湾、フィリピンの三つの民主主義主体が、「立ち向かう代償は屈服する代償よりも小さい」と判断した結果である。
もっとも、真に困難なのはこれからだ。
喝采が消え去り、中国による粘り強い圧力が現実のものとなったとき、その結束を維持できるかどうかが問われる。私は、自らの人生を通じて、そのような防衛線には守る価値があると信じてきた。日本、さらには忘れてはならないフィリピンもまた、私の人生を支えてきたその信念に忠実であり続けることを願っている。
筆者: ウアルカイシ(ウイグル人民主化活動家)
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