【正論】反捕鯨は日本たたきの感情論だ

 

 

中国や朝鮮の肩を持ったことがある。天安門事件の興奮のまださめやらぬ北京で教えていた私は、外国人教師の定宿の友誼賓館に泊まっていた。するとその食堂の一つで犬の肉を出すという。広告を見に行くと、目の前で一西洋人が「Dog meatとはけしからん」と掲示を引き裂いた。昨今のわが国もペット・ブームだ。この英国人の肩を持つ人もいるだろう。

 

だが北京在住の日本人教師たちの反応は違った。掲示を破ったと聞いてその英国人の自己中心的正義感に鼻白んだ。ドッグ・ミートを食うのは野蛮、と決めつける西洋人に違和感を覚えた私たち日本人教師は、その晩、揃(そろ)ってその店へ出向くこととし、破られた掲示の残り半分に記された番号に電話で予約した。初めて食べたが、安い羊肉よりも狗肉(くにく)のシャブシャブの方がうまかった。料理長は「あんた方は朝鮮人か」と訊(き)いた。なんでも北朝鮮の要人が来たとき周恩来は狗肉でもてなしたという。

 

 

食の禁忌は宗教に由来する

 

なぜこの話をまた持ち出すのか。地球が狭くなるグローバル化の世界では、少数派の文化や趣味に対し文句を言い正義面する主流派が増大するからだ。西洋人は犬が食用に供されることを嫌うが、同じ西洋でも馬肉を食べる国民と食べるのを忌み嫌う国民がある。

 

食文化は歴史的に形成された。さまざまな禁忌(きんき)は多く宗教に由来する。蹄(ひづめ)が分かれず、反芻(はんすう)しない獣、鱗(うろこ)や鰭(ひれ)のない魚などもタブーとなった。徳川五代将軍綱吉の「生類憐れみの令」は動物生命維持のために他人の行動に干渉した先例だが、犬公方(くぼう)の令は22年後に廃止された。仏教信心の善意から出たにせよ、他人に強制するとなると、はた迷惑だ。

 

グリーンピースとかシーシェパードの反捕鯨運動は執拗(しつよう)だが、環境保護に名を借りた反日活動で名を売っている。それが英語圏で支持されるのは旧約聖書レビ記にある鯨に対するタブーと無関係ではあるまい。19世紀米国人は盛んに鯨を殺し燈火用の油は採ったが肉は食べなかった。日本近海に来たメルヴィルの捕鯨小説『モービー・ディック』が出たのは1851年。その2年後にペリーは来日し捕鯨船の給水用にと開港を迫った。

 

 

寛容こそ平和共存の規範だ

 

私は疎開先で、家内は戦後の給食で鯨肉を食べた。そんな世代だけに、反捕鯨を前提とする国際捕鯨委員会(IWC)の偏向は手前勝手で面白くない。脱退に賛成だ。ただし日本の捕鯨により鯨の生態系が脅(おびや)かされぬという統計結果を世界に周知させる広報活動が大切だ。というのも近年、日本についてのニュースでこの脱退ほど西洋で報道されたのは珍しい。だが露骨な反日報道の中で仏テレビは「食文化の問題」と報じた。

 

この別の視点が大切だ。生態系を脅かさぬ限り、また海洋資源の保護が可能な限り、他人の食物に苦情は言わない、という食文化に関する地球社会の倫理規範を確立させることが急務だ。日本はノルウェー、アイスランドなどの捕鯨国とともに主張すべきだろう。

 

世界には豚を食べぬイスラム教徒、牛を食べぬヒンズー教徒などがいる。だが反捕鯨の過激派と違って彼らはよその国まで押しかけて「豚を食べるな」「牛を殺すな」などとデモはしない。その寛容こそが平和共存のグローバル・スタンダードとなるべきだ。

 

食文化は不変でなく、鯨でなくても栄養は取れる、という意見もある。だが鯨で譲れば次は海豚(いるか)を取るな、黒鮪(まぐろ)を取るな、と言い出すだろう。それが海洋資源保護の観点からの主張なら考慮に値するが、反捕鯨は一種のジャパン・バッシングだ。かつての黄禍論の一変形の感情論と見るべきだろう。

 

 

まずは討論で勝たねばならない

 

富山の料亭で白魚を鉢に泳がせ二杯酢につけて食べた。この踊り食いの饗応(きょうおう)に西洋人の相客が「日本人は残酷だ」と言う。あいまいに同意したが、招待者に悪いから「でもおいしかった」と私は付け足した。すると相客は「日本人は鯨を食べる。残酷だ」と非難を強めた。こうしたことで目くじらを立てると、問題は食習慣を超え、国際間の感情摩擦の火種になる。

 

他国の食い物を西洋文化の価値基準で判断するグリーンピースの騒ぎようを見かねて、それなら日本も各国のヒンズー教徒やイスラム教徒を誘ってイエローピースを組織し、西洋諸国の食肉処理場のまわりで反対デモでもしたらどうだろう、と二昔前に高知の新聞に書いた。土佐なら鯨の食文化弁護の説に理解があろうと思ったのだが、編集者は私を偏狭なナショナリストと目したと見え、コラムは没になり、1年間の連載予定が2カ月で打ち切られた。

 

それでしつこく再論するが、日本の大学法学科ですべき訓練はこの種の論点について賛成反対のディベートだろう。英語でやれば外国人に負けるからまず日本語でやる。ただし日本語で討論に勝っても、日本の法学士の英語能力では国際的に通用しない。この言語文化的ハンディキャップをどう克服するかが日本の宿命的な問題だ。

 

筆者:平川祐弘(東京大学名誉教授)

 

 

2019年2月27日付産経新聞【正論】を転載しています

 

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Author:

Born in 1931, Sukehiro Hirakawa is emeritus professor at the University of Tokyo and a director at the Japan Institute for National Fundamentals. A prolific scholar and author, Professor Hirakawa has studied in France, Germany, and Italy, translated the Divine Comedy into Japanese, published and/or edited dozens of books, worked extensively in Japanese modern history, and has won, among other awards, the Suntory Prize for Social Sciences and Humanities, the Yomiuri Prize for Literature, the Medal of Honor with Purple Ribbon, the Watsuji Tetsurō Culture Prize, the Order of the Sacred Treasure, and the Japan Essayist Club Prize. A version of this Yasukuni essay appeared, in Japanese, in the newsmagazine Will (September, 2014), and in Professor Hirakawa’s latest book, Nihonjin ni umarete, maa, yokatta (Shinchōsha, 2014). Professor Hirakawa’s English works include Japan’s Love-Hate Relationship with the West (Global Oriental, 2005).

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