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4月にハーバード大の学者らが集まる「ボストン・グローバル・フォーラム」で尖閣問題に関するオンライン国際会議が開かれた。今更ながら尖閣「棚上げ合意」というフェイクニュースが世間に罷(まか)り通っている現状に驚いた。
戦略的、歴史的に捉える
領土問題は、戦略問題である。戦略的、歴史的文脈の中で大きく問題を捉えないと本質を見誤る。
尖閣諸島は、1969年に国連機関が周辺に石油が出るという報告書を出し、にわかに注目を集めるようになった。20世紀後半は石油の時代であった。それ以前、尖閣諸島に関心を払った外国政府はない。52年、尖閣諸島はサンフランシスコ講和条約で沖縄の一部とされ、その後、一貫して米軍の軍政下にあった。中国も、台湾も、尖閣の扱いについて一言の文句も言わなかった。
尖閣問題に火をつけたのは蒋介石である。当時、米中国交正常化に焦る老いた蒋介石は、米英中首脳が集まった戦時中のカイロ会談で、沖縄の中国編入を主張しなかったことを強く後悔していたと言われている。せめて石油の出る尖閣諸島だけでも台湾に譲ってほしいと考えたのだろう。後出しジャンケンである。
同じ69年、中国はといえば、ブレジネフと毛沢東の角逐が頂点を迎え、ウスリー川のダマンスキー島で中国軍とソ連軍が大規模に軍事衝突していた。中国に対し、モンゴルに6個師団を配備したソ連軍は強大であり、しかも戦術核兵器を構えていた。敗退した毛沢東は、ソ連軍の北京侵攻を恐怖したであろう。「大躍進」運動で2千万ともいわれる餓死者を出した毛沢東は、疲弊しきった国内の反発を抑えるために紅衛兵を組織し、「文化大革命」という第二の悲劇に突っ込んでいた。
中国の言いがかりと勘違い
八方塞がりの毛沢東は、米中国交正常化、日中国交正常化に活路を見いだそうとした。米国と日本の資金と技術を手に入れ、同時に、日米にソ連との対決を煽(あお)って中国からソ連の敵意をそらそうとしたのである。72年の周恩来と田中角栄首相の会談では、周恩来は、対ソ不信を爆発させ、日中国交正常化を「一気呵成(かせい)にやりたい」と述べ、尖閣諸島問題について「今は話したくない。石油が出るから問題になった。石油が出なければ、台湾も米国も問題にしない」と率直に述べている。72年5月、尖閣諸島は、沖縄の一部として日本に返還された。中国から一言の文句もなかった。同年9月、日中国交正常化が実現した。
78年10月、日中平和友好条約締結交渉のために日本を訪れていたトウ小平は、福田赳夫首相との会談の後、記者会見で、突如、尖閣問題の棚上げ合意ができたと一方的に発表した。トウ小平は、福田首相に会談で「日本が尖閣問題と呼んでいる問題は、今日は持ち出さなくてもよい」と一方的につぶやいただけである。福田首相は聞き流していた。
当時から日本政府の立場は「尖閣をめぐる領土紛争は存在しない」というものだった。石油が出たから尖閣は自分のものだという主張を始められても、言いがかりとしか言いようがない。業を煮やしたトウ小平は、百数十隻の漁船団を尖閣周辺に送り込み領海侵入を繰り返させていた。今から思えば海上民兵の仕業だったのだろう。トウ小平から見れば実力で領土問題を創り出し、外交では下手に出て、得意の硬軟両様の外交で日本を「棚上げ合意」に追い込んだと勘違いしたのではないだろうか。日本は全く取り合っていなかった。
牙をむく中国に対して
その後、日本は、東シナ海を平和の海にすると誓い、漁業問題でも、石油開発問題でも、中国に対して共同資源管理の方針を愚直に働きかけてきた。しかし、その期待は裏切られた。21世紀に入り、国力の伸長した中国は、実力をもって一方的な海洋拡張主義に転じた。2006年には地中海より広い南シナ海全域が中国の管轄下にあるという荒唐無稽な文書を国連に提出して世界中を驚かせた。瞬く間に軍用機用の3千メートルの空港を造成し周辺国を恐怖させた。渤海、黄海、東シナ海、南シナ海を海洋における戦略的縦深性として確保し、沖縄から台湾、ルソン島に至る第一列島線以西に日米海軍を近づけないというA2AD戦略が現実のものとなりつつある。
12年夏以降、中国は遂に米国の同盟国であるフィリピンと日本に牙をむいた。フィリピンのスカボロー礁は事実上奪われた。フィリピンは国際海洋法裁判所に提訴して勝訴したが、中国は判決を紙くずと呼んだ。東日本大震災、福島第1原発事故で疲弊し、民主党政権下で対米関係を大きく損なった日本も侮られた。中国公船が連日押しかけて尖閣周辺で恒常的に主権を侵害するようになった。
海上保安庁は一歩も引かない体制を敷いた。米国も、尖閣諸島には日米安保条約の共同防衛条項(第5条)が適用されると明言した。今日、尖閣問題は、法律論の次元を超えて、既に力押しの時代に移っている。
筆者:兼原信克(元内閣官房副長官補、同志社大特別客員教授)
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2021年6月8日付産経新聞【正論】を転載しています