ツーリレイク強制収容施設(全米日系人博物館提供)
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先の大戦に敗れた日本が降伏文書に調印した1945年9月2日。米国では「敵性外国人」とみなされた日系人の多くが強制収容施設での生活を続けていた。人気テレビシリーズ「スタートレック」への出演で知られる俳優、ジョージ・タケイさん(85)もその一人。タケイさんが過ごした米西部カリフォルニア州の施設跡地を訪ねた。
銃持つ兵士に監視され
「皆さんの後方に粗末な住居用バラックが並んでいました」。ガイドのダニー・オルティスさん(40)はそう言って、ツアー客の後方を指さした。見渡す限りの平原が広がる。米西部カリフォルニア州北部ツーリレイク。日米開戦翌年の42年、「敵性外国人」とみなされた日系人が西海岸から立ち退きを迫られ、送り込まれた各地の強制収容施設の中で最大のツーリレイク強制収容施設の跡地だ。ピーク時には1万8千人超が生活した。
地名に「レイク」とある通り、もとは湖の底の湿地帯。夏は蒸し暑く、不衛生。冬はバラックの壁の隙間から氷点下の外気が流れ込む厳しい環境だった。照りつける太陽の暑さで、記者(平田)が使用していた録音機も熱を帯び、動かなくなった。
「決して正当化するわけではないが…」。オルティスさんはそう前置きした上で「強制収容という言葉から連想するナチス・ドイツのアウシュビッツのような環境だったわけではない」と説明した。住民の自治があり、学校があり、昼間は農作業などに従事し、週末には近くの山に登り、ピクニックを楽しむこともあった。正月やクリスマスなど季節の行事やパーティーも催された。
「しかしながら」と話が続く。「収容施設での生活は鉄条網に囲まれ、塔の上から銃を構える兵士に監視されていた。食堂は共同でシャワー室やトイレに壁はなかった。労働の対価として支払われる給料もわずかだった」。
全米各地の施設に収容された日系人の総数は12万人超。このうち約3分の2が米国生まれの米市民権を持つ2世や3世。米国人であるにも関わらず、日系という理由だけで米合衆国憲法で保障された自由や財産権を奪われた。オルティスさんは「明白な人種差別であり、決して忘れられてはならない」と断じた。
今に通じる差別の問題
オルティスさんはヒスパニック(中南米系)で、見た目は白人。なぜ日系人の歴史を伝えているのか。
ツアー終了後、彼は事務所で、家族の来歴から話を始めた。母は中米エルサルバドル、父はホンジュラスの出身で、自身はカリフォルニア南部で生まれ育った。ツーリレイクゆかりの婚約者とともに移住し、国定史跡になっている収容施設跡地で働き始めた。
強制収容の歴史は、来訪者を案内するため数年前に始めた勉強の中で初めて知った。「夜遅く、本をめくりながら、涙が止まらなくなった」。
感情が高ぶった理由の一つは、移民の子として幼少期にクラスメートにからかわれた「つらい記憶」を思い出したから。人種の違いを超えて、日系人の話をひとごととは思えなかった。
もう一つの理由は、中南米からメキシコ国境を越えて米国に渡った不法移民の子供たちが「ケージ(おり)に入れられている」との報道を思い出したから。自分と同じルーツを持つ子供たちと、強制収容された日系人の姿が重なった。
「日系人強制収容の問題は、日系人だけの話でも、過去の話でもない。今も差別と向き合う全ての米国人の問題なのです。私は残りの人生をかけて、ツーリレイクで起きたことを伝えていくつもりです」。
全米唯一の隔離収容施設
ツーリレイクには、他の収容施設とは異なる特徴がある。43年2月に実施された忠誠登録のアンケートに回答し、「反米的」とみなされた日系人が集められたことだ。
「命令があればどこであろうと進んで米軍での戦闘任務に就くか?」(質問27)、「米国に無条件で忠誠を誓い、日本国天皇や他の外国政府への忠誠を拒否するか?」(質問28)との2つの問いに「ノー、ノー」と回答することで収容が決まった。
現存する監獄に入ると、壁に氏名や出身地などを記した痕跡があった。生きてここから出られない-。そう覚悟して〝存在証明〟を書き残したようにも思えた。
この施設で日系人に注がれる視線は厳しかった。
「鉄条網は3重に張り巡らされ、監視塔に立つ兵士は機関銃を持っていた。反乱に備え、戦車も配備されていた。大人たちと兵士との乱闘が起き、混乱の中で父に助け出されたこともあった」。44年5月、アーカンソー州のローワー強制収容施設から家族でツーリレイクに移送された俳優のジョージ・タケイさんは、記者の電話取材にこう語った。
タケイさんは米テレビシリーズ「スタートレック」のヒカル・スールー役で人気を博し、今では公民権運動の活動家としても名を知られている。
乱闘による大混乱が起きた当時、タケイさんは小学生。大人になり、父に尋ねたとき、詳しい経緯を知った。急進派の罪に問われた男性が逮捕され、抗議デモが起きた最中に発生したという。
父は言った。「団体として集結し、『逮捕に反対する』とのメッセージを(米政府に)送る。そして、集会の自由を行使する、ということが重要だった」
この言葉を聞いたとき、タケイさんは「強制収容は米国の民主主義の(根幹にかかわる)問題だと気づいた」という。
日系人を支援した人たち
タケイさんは全米各地で講演などを行い、日系人を支え、米国の民主主義を守ろうとした米国人たちを紹介している。「反日感情が吹き荒れる時代にも、強制収容は間違いだと考え、実際に行動した素晴らしい人たちがいたのだ」と。
講演で紹介している一人がウェイン・コリンズ弁護士(1899~1974年)だ。収容施設側の圧力を受け、米市民権の放棄を余儀なくされたタケイさんの母の人身保護を裁判所に申し立て、家族と離れ離れになる強制送還から救った恩人だ。
コリンズ氏は「米市民権の放棄は自由意思の結果ではなく、不法な拘留とツーリレイクに蔓延(まんえん)した無言の圧力に強いられたものだ。ひとえに政府の責任である」と訴え、約5千人の米市民権を回復した。
コリンズ氏は、強制収容の不当性を当初から訴え40年越しの再審訴訟の末に勝利し、88年のレーガン大統領による謝罪と日系人への補償を約束した「市民の自由法」成立への道を開いたフレッド・コレマツ氏の最初の弁護人としても知られる。
コロラド州の知事だったラルフ・カー氏(1887~1950年)も、西海岸から立ち退きを迫られた日系人のため、州内に仮宿舎を設け、受け入れた。その姿勢は有権者の反感を買い、42年の上院選に敗れ政治生命を失う原因となったとされる。しかし、その後も「日系人も他の米国人と同様、憲法上の権利を保障される」と訴え続けた。
高校生だったラルフ・ラゾさん(1924~92年)は、日系の友人たちへの不当な仕打ちに抗議し、自らの意思で友人に同行、マンザナー強制収容施設に入った。後年、「あなたは、収容施設へ入る必要はなかったのに」と指摘された際、こう答えたという。「誰一人として、収容施設に入る必要などなかったのだ」。
ロサンゼルスにある全米日系人博物館の学芸員エミリ・アンダーソン博士は「声を上げにくい戦時下の環境でも、良心に従い、正しい行動を取った先人がいたことに勇気づけられる。2020年大統領選に不正があったと主張し、連邦議会を襲撃した人たちがいるように、米国の民主主義は今も完璧ではない。自由と公正を重んじる米国の理想を守ることは、きっと今の私たちにもできるはずだ」と毅(き)然(ぜん)と話した。
筆者:平田雄介(産経新聞ニューヨーク支局)
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■日系人強制収容
1941年12月の真珠湾攻撃による日米開戦後、反日感情の高まりとともに、米西海岸の指定軍事区域から立ち退きを迫られた日系人が全米10カ所の強制収容施設に移送された。米市民権を持つ米国生まれの日系人も多く、人種差別に基づく米政府の人権侵害との評価が確立。88年8月、当時のレーガン大統領が公式に謝罪した。
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2022年9月2日付産経新聞【特派員発】を転載しています