去る6月末から秋篠宮皇嗣同妃両殿下が、今年で国交樹立100周年を迎えたポーランド共和国を訪問された。
両国の絆は日露戦争に遡(さかのぼ)る。
日露戦争が勃発するや、ロシアの支配下にあったポーランド人はこれを独立の好機と捉えた。中には、聖母マリアやキリスト像などの横に東郷平八郎提督の肖像画を飾り、日本の勝利を祝い独立に胸膨らませた者もいたという。
信頼築き国交100年
そんなとき2人のポーランド人が日本へやってきた。一人は後に初代国家元首となるポーランド社会党のユゼフ・ピウスツキ。積極的協力を訴えたピウスツキらは、「ポーランド軍団」を創設して日本軍とともにロシアと戦うことも提案したほか、ロシア軍の中のポーランド人兵士の積極的投降や情報提供なども申し入れた。戦闘の重大局面におけるポーランド兵の離反は、ロシア軍にとって大きな痛手となったことだろう。
そしてもう一人は穏健派のロマン・ドモフスキ。ドモフスキは、明石元二郎大佐の手引きで参謀本部の児玉源太郎および、福島安正の両将に面会しており、彼は、ロシア軍の中のポーランド人兵士に、日本軍への投降を呼びかける日本政府の声明文の作成にも携わった。明石大佐は、ポーランドの武装蜂起を支援し、武器購入のための資金を提供するなどして独立を助けた。こうしたことから日露戦争の勝利は、実は、日英同盟とポーランド人の協力によるものだったといってよいのではないだろうか。
1918(大正7)年11月、第一次世界大戦が終結してポーランドはロシアから独立を回復した。翌年3月22日、日本とポーランドの国交が樹立した。その後、日本軍将兵を高く評価していたピウスツキは、日露戦争で戦功をあげた51名の日本軍将校に勲章を授与したのだった。
両国の関係はさらに深まる。
日本軍は暗号技術をポーランドから学んだ。1923年にポーランド軍将校を招請して以降、日本軍はポーランドに将校を留学させて暗号技術を習得したのである。暗号技術を他国に教えるなど、よほど相手を信頼していなければできまい。このことは、ポーランドが日本へ全幅の信頼を寄せていた証左であろう。
シベリア孤児救出の物語
1935(昭和10)年、ピウスツキが亡くなったとき、クラクフの墓には靖国神社の境内の土がまかれたというから両国の絆の強さがお分かりいただけよう。その後、敵味方に分かれた第二次世界大戦でも両国は情報分野で繋(つな)がり続け、欧州の情報が密(ひそ)かに日本にもたらされていたのだった。
こうした両国の知られざる友好の歴史が、ワルシャワ大学日本学科のエヴァ・パワシュ・ルトコフスカ教授の長年にわたる地道な研究で広く知られるようになったことは実に喜ばしいことである。
日波交流史の中でも特筆すべきは、「シベリア孤児救出」(1920~22年)の物語であろう。
第一次大戦下、ロシア革命が起こりシベリアに暮らしていたポーランド人は困窮した。
政治犯として流刑されるなどして多くのポーランド人が暮らしていたのだ。彼らが独立を回復した祖国へ帰ろうにもロシア内戦によって帰国できず、生活は困窮を極め数多(あまた)の餓死者を出すありさまだった。そこで在ウラジオストクのポーランド人組織が「せめて子供たちだけでも助けてほしい」と救援を求めてきた。
親日国なのに知らなすぎる
この要請を受けて日本政府がただちに動き日本赤十字社が引き受けた。シベリア出兵で展開していた日本陸軍は1920年から22年までに合わせて765名のポーランド人孤児を各地で救出し、ウラジオストクから軍用船で敦賀に輸送した。その後、孤児らは東京と大阪で養護されたのである。
そして孤児たちが祖国ポーランドに船で帰るときある〝事件〟がおきた。愛情に包まれて養護された子供たちは日本から離れることを拒んだのだ。別れを惜しむ孤児らは船上から「君が代」を歌って感謝の意を伝えたのだった。
ポーランドが日本に恩返しするときがやってきた。
75年後、1995~96(平成7~8)年、阪神淡路大震災の被災児童らをポーランドに招待してくれたのである。その後の東日本大震災でも同様のことが行われた。
2018年11月20日、ワルシャワ近郊に、ポーランド人孤児救援にちなんだ「シベリア孤児記念小学校」が誕生した。驚くべきことに、その校旗には、桜の花と「日の丸」が描かれている。
この7月に同校を訪れたとき、併設する幼稚園の園児らが「君が代」を大合唱して歓迎してくれた。1世紀前の出来事への感謝はいまも色あせることはない。
心温まる交流の歴史と強い絆で結ばれたポーランド、世界屈指の親日国であることを日本人は知らなすぎる。2020(令和2)年、この日本最初の国際人道支援活動から100周年を迎える。
著者:井上和彦(ジャーナリスト)
◇
9月3日付産経新聞に掲載された記事を転載しています
この記事の英文記事を読む