FILE PHOTO: Ceremony to mark Martyrs' Day in Beijing

FILE PHOTO: Chinese President Xi Jinping arrives for a ceremony at the Monument to the People's Heroes on Tiananmen Square to mark Martyrs' Day, in Beijing, China September 30, 2021. REUTERS/Carlos Garcia Rawlins/File Photo

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10月18日、中国共産党は政治局会議を開き、第19期中央委員会第6回総会(6中総会)を11月に開くことを決めた。総会の主な任務のひとつは、党創建以来100年の歴史を総括する「歴史決議」を審議、採択することである。

 

それが採択されれば、毛沢東、鄧小平時代に続く「第3の歴史決議」となるのだが、10月19日付産経新聞・最終版の関連記事でも指摘されているように、このことを推し進めた習近平政権の狙いは、毛沢東、鄧小平と同列に並ぶことによって習主席自身の権威づけを図ることにあろう。

 

実はそれと関連して、習主席にはもうひとつ、隠された意図があると思う。1945年になされた中国共産党史上初の「歴史決議」は、それまでの党内闘争を総括した上で、毛沢東個人の独裁的地位を確立した。その時から76年に本人が死去するまで、毛沢東は唯我独尊の絶対的な独裁者として党と国家に君臨した。その結果、中国は文革期の政治的大混乱に陥り、暗黒の時代を経験した。

 

毛沢東死後の81年、自らも文革の被害者である鄧小平主導下で2回目の「歴史決議」が採択された。この決議は当然、文革期の政治的混乱を総括し、それをもたらした毛沢東流個人独裁の弊害への反省を行った。

 

プレートに描かれる毛沢東(左)、習近平(中央、右)の肖像

 

このような反省の上、鄧小平時代においては指導者の個人独裁を防ぐための「集団的指導体制」と「指導者の定年引退制」が導入された。鄧小平自身、事実上の最高指導者としては、重大な意思決定を行う際には他の長老や指導者たちと相談して決め、そして、生前に、一切の公職から退いた。

 

この政治スタイルは後の江沢民政権と胡錦濤政権に受け継がれていった。習主席の前任の胡錦濤氏の場合、党総書記と国家主席の在任中に文字通りの「集団的指導体制」を守り、党と国家の運営は9人の共産党政治局常務委員の責任分担と合議によって行われた。そして胡氏自身は、上述の2つのポストを2期10年務めた後に政治からほぼ完全に引退した。

 

しかし、今の習主席は鄧小平以来のこの2つの「良き伝統」を完全に破り、あるいは破ろうとしている。共産党トップになってからの約9年間、彼はまず自分一人への権力集中を推し進めた。政治・軍事・外交の意思決定権だけでなく、胡錦濤政権時代では国務院総理(首相)に任された経済運営の指揮権まで習主席の専権事項となり、権力の独占の面ではかつての毛沢東と肩を並べるようになった。

 

その一方、習主席は、憲法を改正して国家主席の任期制限を撤廃し、主席の座にしがみ付くための布石を打った。

 

こうした上で習主席は、来年秋に開催予定の党大会で自らの党総書記職続投を決め、終身独裁者への決定的な一歩を踏み出そうとしている。そのための世論準備の一環として用意されているのが、まさに前述の「歴史決議」である。

 

看板に描かれる鄧小平

 

習主席はこの「決議」をもって、鄧小平の時代と一線を画して自らの時代の開始を宣言し、それによって鄧小平時代の「集団的指導体制」や「指導者の定年引退制」を「過去の歴史」として葬り去る一方、独裁者としての自分の政治スタイルを正当化するつもりである。

 

つまり習主席は、共産党史上最初の「歴史決議」を行って自らの個人独裁体制を確立した毛沢東に倣い、「第3の決議」の成立によって自分自身の独裁的地位の確立を図ろうとしている。この謀(はかりごと)が首尾よく成功し、習主席が毛沢東並み、あるいは毛沢東以上の終身独裁者となった暁には、どれほどの災難が中国人民の上に降りかかってくるのだろうか。

 

筆者:石平

 

 

2021年10月28日付産経新聞【石平のChina Watchを転載しています】

 

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