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1997年から開始した太平洋島サミット。記念すべき第10回の主要テーマは福島処理水であった。戦後、核実験、核廃棄物投棄に広大な海洋が利用されてきた太平洋島嶼国にとって原子力問題は世界のどこよりも敏感に反応するテーマである。
そもそも太平洋島嶼国が結束した背景には終戦直後の1946年から英米仏による太平洋での数百回と続いた核実験への反対運動があった。原子力問題は日本政府主催の太平洋島サミット共催組織である太平洋諸島フォーラムのミッションでもある。
日本は1954年にマーシャル諸島ビキニ環礁での核実験の被爆者として、戦後初の太平洋外交が開始する。米軍による広島、長崎原爆投下で被爆国でもある日本は国内ですぐに原水爆禁止活動が盛り上がる。この運動は東京都杉並区の婦人団体、福祉協議会、PTA、労組と杉並公民館長を務めていた国際法学者安井郁によって開始。「杉並アピール」声明が発表され全国から500万近い署名を集める結果となった。
米国が秘密裏に行ったビキニ実験は日本漁船の被曝により世界が知るところとなったのである。
日本国内の原子力への反対運動と同時に日本は1955年原子力基本法を成立させ核の平和利用促進に米国と歩調を合わせるようになる。そして1980年代の核廃棄物海洋投棄問題で、再び原子力が日本と太平洋島嶼国を結びつける。
1970年代、日本は低レベル放射性廃棄物の海洋投棄を行うことを決定した。1981年に小笠原諸島の北東の公海に投機すべく準備は進められ、日本政府はアメリカ、オーストラリア、カナダ、ニュージーランドとミクロネシア諸島に通知した。これに対し、ミクロネシア諸島から強い反対の声が上がり、1980年には太平洋諸島フォーラム総会で非難決議が採択される。
最終的に1985年の中曽根総理フィジー訪問時に放射性廃棄物の太平洋への投棄計画を 無期停止すると発表した。同年太平洋諸島フォーラムは南太平洋非核地帯条約、通称ラロトンガ条約を採択する。
中曽根首相に続き太平洋島嶼を訪ねた倉成外相が1987年、戦後初の日本の対太平洋島嶼国外交政策「倉成ドクトリン」を発表する。これを受ける形で倉成氏を議長に招き1988年笹川平和財団が島嶼国会議を開催。翌年1989年に30億円の基金が設立される。私は1991年から2017年までこの基金を運営してきた。
再び日本と太平洋島嶼国を原子力が結びつける。1992年に開始した日本のプルトニウム輸送に対し太平洋諸島フォーラムは同年1992年から関連する日英仏政府に対し毎年非難決議を採択する。日本の対太平洋島嶼国政策は原子力問題、漁業問題、そして国際場裡での票の数、である。1997年開始の太平洋島サミットの隠れたアジェンダは、この太平洋諸島フォーラムのプルトニウム輸送批判対応であった。
2000年の第二回島サミットでは10億円の「太平洋島嶼国協力開発基金」が電気事業連合会によって創設されるものの、同年の太平洋諸島フォーラム総会ではこの基金はプルトニウム輸送問題とは切り離して歓迎すると明確にした。10億円で原子力問題を解決できないと明確に述べたのである。
2006年の第4回島サミットまで、太平洋島嶼国首脳は日本を訪問すると、必ず電気事業連合会の招待で日本の原子力発電所を訪問していた。そこではClean and Safetyな原子力が説明された。
太平洋諸島フォーラムのプルトニウム輸送非難決議は2006年で止まっている。
そして2011年の福島第一原子力発電所事故が日本と太平洋島嶼の課題となる。事故当時も太平洋島嶼国は敏感に反応したが、日本政府の処理水放出の発表は、各国の反応に違いは出たものの、太平洋諸島フォーラムとして強い懸念を示すこととなった。
日本政府はこの数年、高官や専門家を太平洋島嶼国に派遣し、処理水の科学的説明に努力を重ねきた。今回の島サミットではその事に対する一定の理解が示され、さらに日本が漁業調査船供与などの太平洋の海洋調査をするという今までとは大きな支援内容の違いがある。太平洋諸島フォーラムが掲げる「ブルーパシフィック」を日本が共に守るという姿勢の違いを見ることができる。
原子力問題が日本と太平洋島嶼国の関係、すなわち島サミットに影響を与えなかった時期、2006年から2021年だが、島サミットは今まで取り上げて来なかった漁業問題や海洋安全保障、気候変動を積極的に取り上げるようになった。今回の島サミットでもこれらの項目は支援項目として残っている。
筆者:早川理恵子(太平洋安保・海洋法専門家)