中国で民主化運動を武力弾圧した天安門事件は、6月4日で30年を迎えた。事件に関する言論が厳しく規制される中国国内で、遺族グループ「天安門の母」は当局の圧力に苦しみながらも「真相解明と責任追及、賠償」を求めて活動を続けてきた。夫を殺された尤維潔(ゆう・いけつ)代表(65)は「政府が行った犯罪の解決は中国が真の法治国家になれるかどうかの試金石」と訴える。
「外で何かが起きている」。1989年6月4日未明、夫の楊明湖(よう・めいこ)さん=当時(42)=は寝室で銃声を聞いた。自宅は北京の天安門広場近く。一緒に階下に下りると隣人が大通りで血だまりを見たという。
夫は広場の学生たちの身を案じ、自転車で現場へ向かった。勤め先の政府系機関、中国国際貿易促進委員会はメインストリートの長安街沿いにあり、デモ行進もよく目にしていた。
尤さんも「国のために立ち上がった若者たち」の状況が気になったが、4歳の息子がいたため「お前は行くな」と言われた。
夫は戻らなかった。朝6時過ぎ、負傷者7人を車の荷台に乗せて病院に運んだという男性から、うち6人が死んだが夫は生きていると伝えられた。病院に駆けつけると、銃弾を受けた夫は膀胱(ぼうこう)が数片にちぎれ、骨盤が粉砕骨折していた。
「公安省の建物から出てきた兵士が掃射した-」。夫の意識はあった。
失血が続く中、医師らが大通りで献血を呼びかけ、多くの人が応じた。「あなたは助かったわ」。そう伝えたが、6日朝に夫は腹腔内感染で息を引き取った。
「申し訳ない。子供をしっかり育ててくれ」。これが遺言となった。
「六四(天安門事件)の惨事で、私は一生分の涙を流しました」
しかし、悲しんでばかりもいられなかった。4歳の息子を女手一つで育てなければいけない。90年代には勤め先の紡績工場の合併でリストラに遭いそうになった。会計を勉強し手に職を付けた。
「母親一人で子供を育て、どんな圧力にも耐えてきました。『天安門の母』のメンバーはみな、苦難の道を歩いてきたのです」
中国人民大元副教授の丁子霖(てい・しりん)さん(82)らが発起人となって創設した同会は、独自調査で202人の犠牲者とその遺族を探し出したが、全体のごく一部でしかない。中国当局が公表した犠牲者数「319人」も尤さんは信じない。
「正確な人数はわかりませんが、政府発表は少なすぎる。夫と一緒に運ばれて亡くなった6人もいまだに身元が分からないのです」
一時は180人を超えた遺族メンバーだが高齢化が進み、55人が亡くなった。2014年の25周年を前に丁さんから代表(広報担当者)就任を打診され、無条件で引き受けた。
「政府が法を犯した大事件が30年たっても解決していない。これで法による統治といえるでしょうか」。尤さんは習近平指導部が掲げるスローガンへの不信感を隠さない。
それどころか中国当局はメンバーを厳しく監視し、肉親が亡くなった場所に献花することも禁じている。
「中国メディアにこそ取材してほしい。そして六四で何が起きたかを自国民に知らせてほしい」