靖国神社の参拝を終え、報道陣に手を挙げる安倍晋三首相
=2013年12月、東京・九段北(三尾郁恵撮影)
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日本の将来に、二重に暗雲が垂れ込めた。安倍晋三元首相が8日、銃撃され亡くなった事件は、経済政策でも安全保障面でも歴史認識問題でも日本を引っ張ってきたリーダーを、一時的にしろ失うことを意味する。同時に、日本社会にとりテロが身近かな存在になったという暗い予感すら覚える。
「すごく盛り上がっていた。あの候補は午後8時の時点で当確が出るだろう。自民党は、かなりの確率で60議席いくんじゃないか」
前日の7日夜には、参院選について安倍氏に電話で取材し、応援に入った候補の情勢を聞いたばかりだった。連日の全国行脚の疲れもみせず、すこぶる元気な様子だったが、選挙区によっては対立候補の支援者らが「暴れることがある」とも話していた。
左派文化人や一部マスコミは、安倍氏に対しては何を書いても言ってもいいとばかりに、罵詈雑言を浴びせてきた。憎悪をあおる彼らの姿勢も、今回の凶行を招いた一因かもしれない。
犯人は、安倍氏という日本の針路を指し示す羅針盤であり、エンジンでもあった人物を退場させることで、日本をどこに向かわせたかったのだろうか。選挙応援中の元首相を銃撃するという行為は、民主主義の否定そのものである。
安倍氏は第1次政権時には、占領下に作られた教育基本法を初めて改正し、防衛庁を省に昇格させ、憲法改正に必要だが未整備だった国民投票法を制定した。
第2次政権以降は経済政策「アベノミクス」で株価を上げるとともに雇用を創出し、国家安全保障会議(NSC)を設置し、政府の戦略的意思決定を迅速化した。
集団的自衛権の限定的行使を容認する安全保障関連法を成立させ、緊張が高まる東アジア情勢に対応し、機密を漏らした公務員らへの罰則を強める特定秘密保護法をつくった。
慰安婦募集の強制性を根拠なく認めた河野洋平官房長官談話の作成過程を検証し、米国のトランプ前大統領に北朝鮮による拉致問題の重要性を説き、米国のこれまでにない関与を引き出した。自民党が憲法改正案に「9条への自衛隊明記」を打ち出したのも安倍氏の意向である。
憲政史上最長の通算3188日の在日期間を終えた後も、反撃能力(敵基地攻撃能力)の保持や、防衛力の抜本的強化・防衛予算の増額などで自民党内の議論をリードしてきた。積極財政派を率いて、財政規律に傾きがちな岸田文雄政権を牽制する役割も果たした。
日本の政治と現在は、安倍氏を抜きには語れない。ともすれば軸がぶれがちな自民党が保守政党を名乗っていられるのも、安倍氏とその同志らの存在があるからにほかならない。
若い頃から難病指定の潰瘍性大腸炎に悩まされながら、2度も首相に上り詰めた安倍氏は時折、次のマックス・ウェーバーの言葉を引用してきた。
「断じて挫けない人間。どんな事態に直面しても『それにもかかわらず!』と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への『天職』を持つ」
まさに安倍氏自身のことだろう。24年前に初めて取材したときから、安倍氏の政治信条は全く変わらず、人柄は優しく誠実なままだった。「天職」を持つ稀有な政治家の突然の死去が、残念でならない。
筆者:阿比留瑠比(産経新聞)