「紀州太地浦鯨大漁之図鯨全體之図」より
(太地町立くじらの博物館所蔵)
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日本人と捕鯨の関わりをみる「わたつみの国語り 第2部」の「クジラがいた風景」。古式捕鯨では、大船団を組み、陸上の司令役とも連携して組織的に捕獲した。戦争で磨いた技術の応用ともいえ、武の精神が宿る。
テーマパークにある海賊館のような門が、和歌山・太地漁港に向かって口を開いていた。「岩門(せきもん)」と呼ばれる地形は江戸時代の絵図にも見える。紀州藩が編纂(へんさん)した地誌「紀伊続風土記」はこのように記していた。
〈山を切抜きて門の形をなす内に入れば、村居に接せり和田氏住居せし所といふ〉
岩門の背後に屋敷を構えた和田氏は、太地で古式捕鯨をはじめた一族である。紀伊続風土記はこう記す。
〈慶長十一年、和田忠兵衛頼元といふ者、泉州堺の浪人伊右衛門、尾州知多郡師崎の伝次といふ者両人をかたらひ鯨突を始む〉
関ケ原の合戦(1600年)から6年、戦国の世が終わろうとしていた時代だ。同書は和田氏の祖先についても触れ、「家伝にいふ」として鎌倉時代の武将、朝比奈義秀の名を記した。
朝比奈義秀の父、和田義盛は関東の武士団、三浦氏の一族で源頼朝の有力御家人であった。鎌倉時代の史書「吾妻鏡」は、義盛は執権の北条義時に反目して和田合戦で敗死し、義秀も討ち死にしたと記している。
ところが、紀伊続風土記にはこうある。
〈義秀和田合戦の後漂泊して此地に蟄居し代々当村に住す〉
実は死んでおらず、太地に流れ着いた…。坂東武者の子孫が太地で捕鯨を始めた、との伝承である。
義秀について吾妻鏡は、「生鮫三匹を抱えて御船の前に浮き上がってみせた」という武勇を伝える。豪胆で知られる武士であった。
さながら凱旋艦隊
捕鯨には、人間よりはるかに小さな魚を相手にする漁業とはまるで違う雰囲気がある。古式捕鯨は漁というよりは狩りで、巨大な生き物を敵に見立てた、水上の軍事作戦に近いものだった。
熊野灘に突き出した太地の燈明崎に立ち、さまざまな資料から浮かび上がる捕鯨の模様を想像してみた。
燈明崎はクジラを探知する見張り所で参謀本部でもあった。山檀那(だんな)と呼ばれる司令官は和田の一族が担う。海上には最大で30艘、400人が展開した。船は15人乗り8丁櫓の快速船、勢子船(せこぶね)、運搬を主にする持双(もっそう)船(ぶね)など役割が異なる。色鮮やかに塗られたそれらの船が波間に浮かび、のろしや旗などで出される指令を待つ。
「クジラ発見」の合図とともに、勢子船の一団が矢のように走り出す。沖にまわりこみ、木槌で船をトントンたたいて陸側に追い立てる。クジラは音に敏感だ。潜水と浮上を繰り返してクジラは徐々に陸の方に向かう。その距離十数キロにも及ぶこともある。
陸に近い船の一団に、山檀那が網を仕掛けよと命じる。クジラが網に絡まると「銛(もり)を打て」の合図。揺れる船上でやり投げ選手のように構え、放物線を描くように銛を打つ。重力を利用して分厚い皮を貫通させるためだ。何本、何十本と銛が突き立つ。褌裸の男たちはクジラが吹き上げる血を頭から浴び、全身真っ赤だ。
やがてクジラの動きが鈍る。背中に一人がよじのぼって噴気孔付近に穴をあけ、綱を通す。持双船2艘の間に渡した丸太に綱を結わえ、クジラを挟んで運搬する形をつくる。ゆっくり浜に向かう船団は、凱旋艦隊のようであったろう。
戦国期に尾張から?
「古式捕鯨とは戦争で発達した技術を、応用したものだといえます。足腰の部分が戦闘で成り立ち、金銭に換算できない勇気や決断、実行力が求められる、過剰を生命とする産業だといえるでしょう。この戦争機械を通過して自然の富は初めて、経済的な価値へとジャンプするのです」
京都大こころの未来研究センター特任教授の中沢新一氏はこう述べた。井原西鶴が目を付けた経済のプロセスに入る前段として、巨大な生命体を打ち倒す戦いがある。そこには損得を超える、精神の躍動があった。
組織的な古式捕鯨は戦国時代の激震地、愛知で始まったとする説が有力である。元亀年間(1570~73年)、知多半島の師崎付近で7~8艘で捕鯨が行われたと江戸時代の捕鯨専門書は記す。銛で突き取る方法だった。織田信長が鯨肉を朝廷に献上したとの記録があり、戦略的に捕獲されていた可能性もある。紀伊続風土記にある「尾州知多郡師崎の伝次」はこの地で行われた先進捕鯨術を、太地に伝えたのであろう。
武門の矜恃
和田氏の祖先が朝比奈義秀なら捕鯨と武門の関係はより鮮明になるが、複数の専門家は事実ではない可能性が高いと指摘した。義秀をめぐる伝承は数多く、歌舞伎や狂言の題材にもなった著名な武将だ。中世史研究家の鈴木かほる氏は「三浦氏は鎌倉時代に紀伊守護を務め、初代藩主徳川頼宣の母が出た一門。名門三浦氏の子孫と位置付けるための系図を作った可能性も考えられます」と話した。
紀州藩は和田氏を武士待遇の地士として名字帯刀を許し、有事に備えた軍事的な役割も担わせた。武門の矜持(きょうじ)で捕鯨にあたったことは間違いないであろう。(坂本英彰)
筆者:坂本英彰(産経新聞)
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2022年4月5日付産経新聞【わたつみの国語り 第2部(2)】を転載しています