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物心ついたころ、洋品店を営んでいた筆者の実家には「ミゼット」があった。だから、中学、高校時代を大阪府池田市ですごした筆者は「人生の最後には、地元ダイハツの軽自動車に乗りたい」とずっと思っている。「ありがたい言葉です。ダイハツはこれからも池田市民の一人です」と広報室主任の丸山裕昭さん(46)。「ダイハツ」の名を世界に広めた「ミゼット」。いまも池田工場で手作りで生産されている憧れの軽スポーツカー「コペン」。懐かしのダイハツ車を見てみよう。
CMでブームに
「ダイハツ」の名前を一躍、全国区にしたのは昭和32年に発売された軽三輪車「ミゼット」である。筆者より1歳年下。
初期車はバーハンドル、幌(ほろ)製キャビン、キック式スターターで1人乗り。
「実はミゼットに幌が付いたのには、ちょっとした逸話があるんですよ」
丸山さんによると、31年夏のある雨の夜、ダイハツの販売会社の社長が大阪・梅田の街を歩いていると、目の前でビール瓶を満載していたスクーターが滑って横転。全てのビール瓶が割れた。
「あぁ、幌さえ付いてたら…」。そんなディーラーの声が反映され、幌付き荷台のミゼットが生まれたという。
筆者の実家にあったミゼットは、映画『ALWAYS続・三丁目の夕日』に登場し、暴れ狂うゴジラの攻撃を巧みにかわして疾走するあの型のミゼット。右の丸ハンドル、全鋼製キャビン、電動スターター、補助席付き。34年12月に売り出されたものだ。
ミゼットは28年に開始されたテレビCMに乗ってブームを獲得した。きっかけとなったのが33年4月から朝日放送で始まった『ダイハツコメディー やりくりアパート』(毎週日曜日、午後6時半からの30分番組)。
大阪の下町にあるアパート「なにわ荘」を舞台に、住人の学生たちや管理人一家が巻き起こすドタバタコメディー。出演は当時、人気があった大村崑、佐々十郎、茶川一郎、芦屋雁之助たち。番組の最後には大村と佐々掛け合いの生コマーシャル。
「小回りがきく車」「ミゼット」「安い車」「ミゼット」「便利な車」「ミゼット」と崑ちゃんが両手を広げて「ミゼット」を連呼。インパクトのあるCMだった。
「当時、ミゼットは〝街のヘリコプター〟といわれ、多い月には8500台も売れて、町にあふれかえったと聞いています」と丸山さん。
先取りし過ぎた
そんな初代から時は流れて平成8年、「ミゼットⅡ」(1人乗りトラック)が誕生した。
池田工場内の「ミゼット工房」で専門の熟練技術者の手作業で組み立てられたもので、フロント中央にスペアタイヤを抱き、左右に独立した丸目のヘッドライトというユニークな顔。翌年には2人乗りも発売された。
今の時代なら、カメレオンのようなかわいい顔をした電気自動車-と人気が出そうだが、ちょっと売り出す時代が早かったようだ。
地球環境にやさしく-と「従来の軽自動車よりもさらに小さいボディー」を売りにしたが、荷台の積載量が150キロしかなく、13年に生産を終了したのである。
匠の技光る趣味の逸品
池田工場の「ミゼット工房」は終了したが、技術者の手作りの精神は「エキスパートセンター」として受け継がれた。そして平成14年に誕生したのが、軽自動車として初の本格的スポーツカー「コペン」である。
ベルトコンベヤーが存在しないフレキシブルな生産現場。「社内技能認定制度」で2級以上を取得した精度の高いスキルを身につけた熟練技術者たちが「知識」「技術」「情熱」をかたむけて仕上げた、まさに〝匠の逸品〟だ。
発売当時、46歳の筆者も「コペン」に一目ぼれ。価格は約150万円。サラリーマンの平均年収が約380万円の時代。ただ、5人家族で2人乗りのスポーツカーは…。指をくわえて眺めるしかなかった。
26年にフルモデルチェンジし「ローブ」「エクスプレイ」「セロ」など洗練されたスタイルの〝子供たち〟が生まれたが、筆者はふっくらと丸みをおびた「初代」が好きである。
「コペン」は現在も受注生産で令和5年度上半期(4~9月)の販売台数は2800台。
「そんなに売れてるの!」と驚く筆者に丸山広報は「タントは7万台売れてます」。「コペン」は根強いファンに支えられた〝趣味の車〟なのだ。
ちょっとええ話
池田市では「ダイハツ」と協力し「子ども、子育て支援日本一のまち」をめざす取り組みの一環として平成29年から『エンゼル車提供制度』を実施している。
池田市で第3子以上を出産し、一定の条件(出産時点で池田市に6カ月以上居住し、市税を完納)を満たしている人に、3年間無料でダイハツの新車「ブーン」または「トール」を提供する-というもの。3年後には安く買い取ることも可能だ。
池田市名誉市民の桂文枝さんなら「新婚さん、池田にいらーっしゃい!」というかも。
筆者:田所龍一(産経新聞)