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6月21日午後1時、有明海に面した長崎県南島原市の海岸で、陸上自衛隊「水陸機動団」の隊員に必要な資質や能力を習得するための訓練教育が始まった。
水機団は、占領された離島を奪還するため海上から上陸し、陸上戦闘で敵を制圧する水陸両用作戦を実行する。厳しい任務を担う最精鋭部隊だけに、隊員を養成する教育内容は過酷だ。
迷彩服に防弾チョッキやヘルメットなど重さ約20㌔の装備を身にまとった119人の隊員たちは海からの上陸に用いる偵察用ボートを制限時間内に組み立てる作業に取り掛かった。
隊員たちは大粒の汗を垂らしながらひたすら空気入れを踏む。組み上がったボートをチェックした教官が淡々と告げる。「駄目、やり直し」。わずかでも組み立て不良が見つかれば、2度、3度とやり直しを命じられる。
気温30度近い炎天下、組み上がった重さ約180㌔のボートは8人一組が担いで海辺まで運ぶ。ボートに乗り込んだ隊員たちは手こぎで、沖合約1㌔に浮かぶ3つのブイを周回。途中で訓練のためにわざと転覆させたボートを元に戻して陸に上がる。最後はボートを担ぎ、足場が悪い砂浜約1㌔を運搬するまで、訓練は約4時間続いた。
中国軍台頭で進む南西シフトを進めてきた
自衛隊70年の歴史の中で、水機団の歴史は決して古くない。発足したのは平成30年3月。尖閣諸島(沖縄県石垣市)に対する中国の圧力が強まり、離島を奪還する作戦能力が必要と判断された。裏返して言えば、こうした機能は長く必要とされていなかったということになる。
自衛隊が発足した当時、日本にとって最大の脅威はソ連(ロシア)だった。ソ連海軍が宗谷海峡を自由に通航するため、北海道北部に着上陸侵攻する事態を想定し、自衛隊は北海道や東北に部隊を重点配備してきた。だが、冷戦時代を通じてソ連軍と自衛隊の戦力差は歴然としていた。このため、3~4個師団による「限定的かつ小規模な侵略」は自衛隊が独力での排除を目指し、それ以上の敵襲では米軍の来援を待つ、というのが日本の基本戦略だった。
ところが、冷戦が終わり、ソ連極東軍の戦力が低下する一方、中国の軍事的台頭が顕著となり、自衛隊は部隊を九州・沖縄に重点配備する南西シフトを進めてきた。水機団の創設は南西シフトの一環でもある。
その場にうずくまる
「尖閣は独力で守り抜く。これだけはやってほしい」
水機団が創設された当時の安倍晋三首相は、計画段階から、口を酸っぱくして関係者にこう語っていた。背景には、日本の岩だらけの無人島を守るため、米大統領が米兵の命を犠牲にする決断を下すとはかぎらない、という冷厳な認識があった。
これに加え、尖閣諸島有事は単独で発生するのではなく台湾有事などと連動して起こる可能性が高い。防衛省幹部は「そんなときに米軍がどこまで尖閣に部隊を割けるか分からない。自分の国は自分で守るという意識が最も必要とされるのが尖閣だ」と語る。その奪還を担うのが水機団だ。
6月の訓練では、隊員が力尽き、その場にうずくまる姿も散見された。教官に抱えられ、離脱した隊員もいた。「気持ちで負けるな」。教官がハッパをかける。
自衛隊や米軍が報道陣に公開する訓練は、形だけのものが多く、隊員の間では「フォトセッション(撮影会)」と揶揄されることもある。だが、6月の訓練は真剣勝負そのものだった。米子駐屯地(鳥取県米子市)の第8普通科連隊に所属する渡辺達也3等陸曹(33)は近く水機団に配属される予定だという。訓練を終え、真っ黒に日焼けした精悍な顔つきで語った。
「国防の最前線に立つ水機団の隊員としての覚悟はできている」
筆者:小沢慶太(産経新聞)