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日本の代表的な文化の一つに、「小倉百人一首」がある。江戸時代から、かるたとして親しまれてきた。かるた競技は近年、漫画『ちはやふる』(末次由紀/講談社)のヒットもあり、競技人口が増えている。
しかし、百人一首の成立の背景を知る人は少ないのでは? 私も今回、「TAMASHIZUME~情念の百人一首~」という音楽劇の脚本を執筆するまで全く知らなかった。
そんな私がこの作品を手掛けることになったのは、2017年に音楽の友ホールで開かれた薮田翔一氏の「小倉百人一首歌曲集・出版記念コンサート」を訪れたことがきっかけだ。薮田氏は若い頃から中原中也の詩や百人一首などを歌曲にし、2015年にはジュネーブ国際音楽祭で日本人初の作曲賞グランプリを獲得、気鋭の作曲家であり、私の親友の弟だ。
そのメロディーは美しく心を打つのだが、1分ほどの短い和歌の歌曲を、続けて100曲聞くそのコンサートは少し単調だった。「曲をゆっくり味わいたいから、何かお話しに乗せて、10~20曲を味わう音楽劇にしたら?」と、思いつきで言ってしまったら、姉弟が共に「やりたい」と言う。言い出しっぺとして後に引けなくなってしまった私だが、百人一首を芝居にまとめるとしたらどうしたものか、すぐに困り果てることになった。
幸いにもその後、日本文化研究家の池田光璢氏と知遇を得る。相談すると池田氏は、「織田正吉の『絢爛たる暗号』(集英社)を読んでみてください」という。読むと私はそのエキサイティングな解釈にインスパイアされ、読了後瞬くうちに、来春に上演する音楽劇の構成を思いついた。その「織田理論」とは何なのか、説明したい。
「百人一首」は平安後期の有名な歌人、藤原定家編纂だが、百人一首と三首しか違わない「百人秀歌」という歌集の存在を知る人は少ない。それもそのはず、百人秀歌は昭和の時代に宮内庁の書庫で発見されるまで、忘れられていたからだ。実は百人一首も編纂されてから長く「秘伝」とされ、室町時代に宗祇という連歌師によって研究・発表されるまで、こちらも非公開作品だったのである。
長いこと隠されていたのはなぜか。それは百人一首が、後鳥羽上皇・順徳院という、鎌倉時代の政権に歯向かった二人の和歌を含んでいるからだろう。当時はそんな二人の和歌を取り上るだけで、処刑される時代だった。
織田正吉は在野の研究家だが、百人一首と昭和になって発表された百人秀歌を徹底的に比較研究した。そして、「その二つの歌集は符合し、中には定家がひた隠しにしたメッセージが含まれている」と結論付けたのである。
「秘密のメッセージ」とは何なのか。
即ち「藤原定家は、幕府でなく後鳥羽上皇ら天皇家を支持している」という事である。
学術的にはあまり認められていないそうだが、演劇の素材としては面白い。そこで私は、それをもとにこの音楽劇の物語をくみあげた。
藤原定家は、流刑にされた後鳥羽上皇と大変親密であった。けれど、上皇が鎌倉幕府に反旗を翻した「承久の乱」の一年前に、『新古今和集集』の和歌選定を巡り、上皇と対立。乱には参加しなかった。
それが幸いして、定家はその後、順調に出世をしていったが、後鳥羽上皇は死ぬまで流刑地の隠岐に幽閉され、そこで朽ちた。上皇は死ぬまで幕府と定家を呪っていたとされる。この音楽劇の中では、その呪いを封じるために、藤和定家が百人一首を編む。
身近にある百人一首が、今までと違うものに感じられるはずだ。ぜひこの音楽劇や織田正吉の著作と共に、百人一首という日本の珠玉の文化を味わっていただけたら幸いである。
筆者:さかもと未明