96歳でこの世を去った伊藤義郎は激動の戦後、民間で日米の絆をつないだ偉大な経済人の一人だ。1972年の札幌五輪の招致にはじまり、全日本スキー連盟の会長を務め、アジアのスキー振興に貢献。民間主催の航空ショーとしては最大だった「札幌エアショー」(旧札幌航空ページェント)も伊藤の力なくしては開催できなかった。
Chairman Yoshiro Ito Sugiura 伊藤会長IMG_8058圧縮 Cut to Feature

Known as "Mister Ito," Yoshiro Ito was interviewed by this reporter in 2016. (@Sankei by Mika Sugiura)

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2100人を超えるお別れ会 米海軍大将も出席

 

伊藤義郎氏のお別れの会「蒼空のつどい」。総勢2100人が参列した(伊藤組グループ提供)

 

日本と米国の安全保障の絆を民間で築いた、一人の経済人が96歳でこの世を去り、そのお別れ会が3月4日、札幌市で開かれた。1972年の札幌五輪招致に貢献、生涯にわたって北海道の経済界を牽引した建築土木の伊藤組グループ代表、伊藤義郎氏だ。米海・空軍から深い信頼を得て「ヨシ」「ミスターイトー」と慕われた。北海道が生んだ偉大な経済人だった。

 

2023年12月5日に亡くなったその3カ月後に、札幌市のホテルで開かれたお別れの会「蒼空のつどい」には、2部に分かれ全国から政財界の要人ら総勢約2100人が参列した。

 

通常の財界人のお別れ会と違ったのは、米国中央軍司令官海軍大将(退役)のウィリアム・J・ファロン氏はじめ、在日米海軍司令官ラティ海軍少将、第35戦闘航空団司令官リチャード空軍大佐、太平洋艦隊司令部防衛部ヴォーン氏らが米国から駆け付けたほか、自衛隊陸、海、空の将官らも参列していたことだった。

 

ファロン氏は弔辞で伊藤氏を「米国海軍の尊敬すべき特別な友人」と表現、「彼(伊藤氏)ほど日米の同盟の強化と友情促進に取り組んだ人はいなかった。彼が日米のパートナーシップ継続促進に生涯をかけて取り組んでいたことは、現在私たちが直面している安全保障の問題に照らし合わせると、なおさら重要だと思う」と故人を偲んだ。

 

伊藤氏の功績と歩みを示す展示に多くの人が見いっていた(伊藤組グループ提供)

 

ハウスボーイとして働き、終戦直後に渡米

 

伊藤氏の米国との関係の原点となるのは日本敗戦だ。終戦の年、早稲田大学に在籍していた伊藤氏は東京大空襲を経験、学徒動員で働いていた工場や下宿先も焼失した。傷だらけだった日本で伊藤氏は「日本を負かした米国を見てみたい」と米国行きを決意する。

 

留学のために連合国軍総司令部(GHQ)の証明書をとるために面接に行ったところ、英語力が足らないと言われ、進駐軍将校宿舎でハウスボーイとして働き、実地で英語を学んだ。審査に通った伊藤氏は貨物船で横浜港から2週間かけてサンフランシスコ港に到着する。しかし、パスポートを持っていなかったため密航者として監獄に収監されてしまった。

 

「GHQの統治下で誰もパスポートが必要と当時は思っていなかった」と生前、話してくれた。監獄の食事もおいしく、日本と米国の国力の違いを思い知らされたという。その後、伊藤氏はUCLA(カリフォルニア大ロサンゼルス校)大学院、コロンビア大学大学院と米国の西と東の大学で学び、広大な北米大陸を肌で感じ取り、国際感覚を養う。

 

 

ペンタゴンが原子力空母寄港を相談

 

札幌市の中心地にあった伊藤邸はGHQに約4年間、接収されていた。米国に対して悪感情を持ったとしても不思議ではないが、伊藤氏は軍艦が北海道に寄港する際の野菜や水の補給で米軍から頼りにされ、それを楽しんでいた。大所高所から決断する人だった。

 

米軍が原子力空母を日本に配備するときに、「日本人にとって印象がいいのはジョージワシントン」とアドバイスしたところ、その通りになったという。歴史的に政治的に左派が強い北海道で、空母の寄港を実現するにあたり一般公開を条件にしたところ、何万人もの見物客が訪れた。「アジアの安定にとって米空母の配備が重要」という考えだった。

 

2016年、北海道正論友の会の設立で挨拶する伊藤氏(杉浦美香撮影)

 

産経新聞・正論との絆も

 

私と伊藤氏とのお付き合いは産経新聞札幌支局長時代に遡る。革新系が強い北海道で、保守を標榜する産経新聞は購読者数も少なく、知名度は低かった。産経新聞のオピニオン「正論」を知ってもらうために2016年に「北海道正論友の会」を立ち上げる際には、札幌商工会議所会頭の岩田圭剛氏とともに代表幹事を引き受けてくださり、支えてくださった。会の打ち合わせなどで伊藤氏から米国留学の際に密航者と間違われたエピソードなどを伺うのが何より楽しみだった。ペンタゴン(米国防総省)との人脈も深く、湾岸戦争の砂漠の嵐作戦のときに、米軍から戦車を民間の貨物船に乗せてくれるように秘密裡に相談があったことなど、表にできないようなことをいくつも話してくれた。

 

 

航空機とスキーをこよなく愛した

 

伊藤氏の航空機好きは筋金入りだった。1964年に北海道における航空に対する理解と普及啓発を図るために設立された北海道航空協会の副会長、会長を歴任。協会は民間主催の航空ショーとしては最大規模のエアショー「札幌航空ページェント(札幌エアショー)」を主催し、新型コロナウイルス拡大で中止になるまでほぼ隔年で開催した。

 

会場となる丘珠空港は陸上自衛隊と民間の共用空港になる。そこに、伊藤氏が直接、米軍とどの戦闘機を飛来させるかを調整した。米軍、陸海空自衛隊、海上保安庁、民間機も参加するエアショーは伊藤氏なくしては開催できなかっただろう。丘珠駐屯地の建物の屋上で取材のためにカメラを構えた。航空機ファンでなくてもその規模に心が震えた。伊藤氏は政治的な発言はされなかったが、日本への配置論争が起きていたオスプレイの地上展示も行った。国際感覚にあふれ、平和を守るために安全保障の重要性を何よりも知っていた。

 

2018年に開かれた札幌エアショー。大勢の人が訪れていた(大山文兄撮影)

 

スキーもプロ級の腕前だった。招致に携わった札幌五輪などを通じて、皇室との深いパイプもあった。お別れ会には、宮家の方々の献花が並んでいた。

 

 

北海道の歴史の一つだった

 

「北海道がどれだけ大きいかわかりますか」

 

伊藤氏に打ち合わせで会うたびに私にそう問いかけた。九州の約2倍がすぽっと入る面積を持つのが北海道だ。食料生産の1次産業が占める比率が全国に比べて大きく占める北海道では少子高齢化、過疎化が進む。弔辞で、岩田会頭は伊藤氏が「北海道をいつも大北海道と言って47都道府県の一つではない。北海道は日本の中で貢献できる大地であり、インフラ整備をするのは無駄ではなく、日本のためという信念をもっていた」と述べた。

 

北海道を愛し、日本を愛し、世界の平和のために何が必要かを常に考えてきた人生だった。

 

 

民間の日米の安全保障強化

 

北海道航空協会は、伊藤氏と米国との関係のシンボルともいえるエアショーの閉幕を伊藤氏のお別れ会が開催された翌日にウェブサイトで発表、エアショーは約60年に及ぶ歴史を閉じた。

4月には岸田首相が訪米、バイデン米大統領と会談し日米の関係強化、連携を確認した。戦後約80年。伊藤氏は民間人で築いてきた。伊藤氏の跡を継いだ長女の美香子氏は「蒼空に飛行機を見つけたら父を思い出してください」と締めくくった。北海道の経済人という伊藤氏だからこそ紡ぐことができた日米の絆と軌跡を忘れてはならない。

 

筆者:杉浦美香

 

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