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本稿では、鯨を食べることで食料安全保障の問題が解決できると主張するつもりではない。鯨を食料資源として受け入れている地域や国においても、食料としての鯨への依存度は様々であり、鯨食の将来の姿も様々なシナリオが存在しうる。一律な鯨食の姿を前提として、その食料安全保障との関係を論ずることは、過度な単純化であって、問題の本質を捉えることは期待できない。
鯨は環境保護のシンボルとして扱われることが多い。しかし、鯨食問題を考えてみると、それは食料安全保障をめぐる様々な問題を包含している。むしろ、鯨は、食料安全保障問題のシンボルとして見、考えることが重要であろう。
ロシアのウクライナ侵攻により、ウクライナからの穀物輸出が滞ったことで、世界の食料安全保障体制の脆弱さに注目が集まった。小麦や大麦の輸出量では世界でベスト5に入る主要な穀物輸出国であるウクライナからの輸出は、多くの開発途上国を含む世界各国の穀物需要を支えてきた。それが突如滞った影響は衝撃的である。さらに加えて、食料安全保障問題については、気候変動に起因する旱魃、洪水、熱波と寒波などによる、地域的、世界的食料生産への悪影響が懸念されている。また、新型コロナウイルス災禍は世界規模での食料の輸出入や流通を停滞させた。エネルギー危機も食料価格の高騰につながっている。
その結果、食料安全保障は近年になって国際的に急速に注目され、取り上げられる問題となった感がある。専門家や有識者の間では早くから食料安全保障の諸問題が認識され、警鐘が鳴らされてきていたが、ようやく危機感が広く共有されるようになった。昨年6月のG7では食料安全保障に関する声明が採択され、昨年5月のダボス会議(世界経済フォーラム)でも食料安全保障や食料危機が取り上げられた。
それでは食料安全保障の具体的な問題点とは何なのか? それらと鯨はどう関係するのか。
現在の世界の食料事情を概観してみよう。食料安全保障は決して開発途上国や貧困層に限定された問題ではない。表面上は豊かな食料にあふれた日本も深刻な状況にある。
日本も含め、世界の多くの国々は食料供給を外国からの輸入に頼っている。世界の200ヵ国余りの国々の中で、主要食料である穀物自給率が100%を超える国は約2割に過ぎず、さらに、その中でコンスタントかつ実質的な量で食料を輸出している国はさらに少ない。また、世界の食料生産の大部分は自国で消費される。例えば、米の場合、総生産量の90%あまりは自国で消費され、国際市場に出回る米は10%内外にすぎない。このような状況の中で、ウクライナやロシアといった数少ない輸出余力を持つ国々からの輸出が滞った結果が、現在の世界的な食料安全保障の動揺と危機である。
輸出国からの食料輸出が滞る事態は、国際紛争だけが原因ではない。洪水や旱魃などの自然災害が食料輸出国で発生すれば、食料自給はすぐに逼迫し、価格も高騰する。気候変動が進む中で、このような事態は将来さらに頻発する可能性が高い。
仮に国際紛争や自然災害が起こらない場合を想定すれば、世界はこれら少数の食料輸出国に頼り続けることができるのだろうか。実は食料輸出国の生産能力は、国際紛争や自然災害がなくとも、危機的な限界に達しつつある。今まで世界は急速に増加する人口に対して農業生産を同様に増産することで対応してきた。しかし、実はこの間農地面積はほとんど横ばいで、大量の肥料と農薬と技術革新で単収を上げることで、増産を可能としたのである。森などを切り開いて新たな農地が造られる速度と、塩害、地力の劣化、様々な原因による農業就業者人口の減少、都市化による農地の宅地化、内戦などの紛争などによる農地の減少速度はほぼ均衡しており、結果として農地は増えていない。今後新たな農地を開拓することが出来る適地はさらに制限されてくる。単収のさらなる増加を望むばかりであるが、そこには自ずと限界があろう。
農地に加えて、農業生産に必須の資源は水である。水が豊かな日本では実感に乏しいが、水資源の逼迫は世界的な問題であり、水をめぐっての国際紛争も発生している。世界の食料庫と呼ばれ、生産性の極めて高い大規模農業を営む米国の農業も、水資源危機に直面している。コーンベルトなどと呼ばれる、米国の主要農業地帯である中西部は、降水量の多い地帯ではなくむしろ乾燥地帯である。そこでの大規模農業生産を支えてきたのは、地下水を汲み上げて行われている灌漑である。その地下水はオガララ帯水層(Ogallala Aquifer)と呼ばれる太古から蓄積された膨大な量の水で、化石水とも呼ばれる。使っても湧いてくる通常の地下水とは異なり、この化石水は使われれば使われた分だけ減少し、その更新には地理学的な長い年月を要する。この、米国農業の生命線とも言えるオガララ帯水層の水が急速に減少し、枯渇してきている。今のような米国農業が存続出来るのか。この化石水は2050年から2070年ごろには枯渇すると試算されている。その時までは米国農業が維持できるとしても、その過程でコストが増大し、食料価格が高騰することは避けられないように思える。
筆者:森下丈二(農林水産省顧問)
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「鯨研通信」第498号(2023年6月)の記事を転載しています
クジラと食料安全保障
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