[SPONSORED]
IMG_2789 Whaling Today November 5 rs

山口県下関市の港を出港する新捕鯨母船「関鯨丸」(日本鯨類研究所提供)

This post is also available in: English

(2)から続く

和歌山県太地漁港の漁師ら=2023年3月2日(日本鯨類研究所提供)

鯨を含む日本の水産物も、水産資源が豊かな日本周辺水域で、日本の漁業者が営々と営んできた漁業によって供給されて来た。日本周辺水域は、世界的に見ても鯨の種類と資源量に恵まれた海であり、また世界三大漁場の一つであった。日本で漁業が発展し、捕鯨が営まれ、魚食文化と鯨食文化が発展したのも必然であった。狭い国土に世界トップクラスの人口密度が生活することを可能としてきたのは、少なくともその一部は周辺海域からの鯨を含む多様な水産物の供給の存在があったと言えよう。

量的に言えば、反捕鯨運動によって鯨食が消滅する事態があったとしても、食料安全保障に対する負の影響はごく小さいか、地域限定的なものであろう。しかし、その象徴する意味はグローバルな食料安全保障にとっての脅威である。グローバルスタンダードの名の下に、鯨を含む様々な野生動物の食料としての利用が否定されている。手付かずの自然を守るという考え方は間違ってはいないが、その結果として、開発途上国や、豊かな自然環境に隣接して暮らしている地域住民が、その自然から食料などの生活の糧を得ることが制限され、否定されることになれば、彼らの生活は外の世界での出来事に左右されることになり、食料安全保障の観点からは脆弱となる。もちろん、自然の資源の利用は持続可能なものでなければならない。乱獲は許されてはならない。

しかし、鯨は特別な動物であるから一頭たりともとってはいけないということと、乱獲を防止するために捕獲を制限するということは、全く別物である。手付かずの自然を守るという考え方のもとで、持続可能な自然資源の利用までも否定することは果たして許されるのか。

一面に広がる稲穂。コシヒカリの「多古米」の収穫が行われていた=9月、千葉県多古町(酒井真大撮影)

食料供給のグローバル化にはもう一つの問題点がある。食料を生産し、運搬流通させることに伴う環境負荷の問題である。例えばアメリカ産の牛肉を輸入して日本で食べる場合には、牛肉1キロカロリーあたりその20倍以上のエネルギーが投入されている。牛の体重を1キロ増やすためには11キロの餌を与えなければならないし、その餌である穀物などを生産するためには、農地、水、肥料、農薬が必要である。アメリカの農地の約半分は家畜の餌の生産に使われているという。その米国産牛肉を日本で消費するためには、膨大な距離を輸送する必要があり、船や飛行機の燃料消費を伴って二酸化炭素などの温暖化ガスの排出を増やすことになる。それらを全て計算に含めると20倍以上のエネルギー消費につながる訳である。

南本牧埠頭のコンテナターミナル=横浜市内(産経新聞本社ヘリから、納冨康撮影)

食料の環境負荷を示すもう一つの指標としてフード・マイレージがある。食料の輸送量と輸送距離から計算される指標で、二酸化炭素の排出量が組み込まれることから地球環境に対する負荷を表す。

2001年の数字となるが、農林水産省農林政策研究所の試算によると、日本のフード・マイレージは総量で9002億トン/kmで世界一である。国民1人あたりでは7039トン/kmとなっている。米国の場合、総量では2958億トン/km、国民一人当たりでは1051トン/kmとなり、それぞれ日本の3分の1、7分の1である。米国ほどの国土には恵まれていない欧州の英国の場合でさえ、総量で1879億トン/km、一人あたり3195トン/kmで日本よりははるかに環境負荷が小さい。日本は、低い食料自給率のもと、輸入食料に頼ることで地球環境に膨大な負荷をかけているということになる。

北海道釧路港で水揚げされるミンククジラ=2019年9月

他方、日本の周辺水域で鯨を捕獲して食用とする場合の二酸化炭素排出量は、2009年の水産総合研究センター(現水産研究・教育機構)による試算では、鯨肉1キロあたり約2.5キロである。南極海での調査捕鯨による鯨肉の場合でさえ、二酸化炭素排出量は約3キロにとどまる。米国産牛肉で同様の計算を行う場合の10分の1以下にすぎない。

鯨が自分で餌を食べて成長し、捕獲した後も日本周辺水域から日本の港に水揚げするだけのエネルギーの消費で済むことから、この数字にも納得がいく。再度繰り返すが、鯨肉を食べていれば食料安全保障が確保されると主張する意図は毛頭ない。輸入する食料と、日本が自前で確保できる食料の環境への負荷の違いを示す事例として示したまでである。

グローバルな環境負荷の軽減という観点からも、日本の国土や周辺水域で、自らの力で食料を生産できる能力、すなわち食料自給力を少しでも高めていく必要がある。ウクライナ侵攻や新型コロナウィルス災禍は長い歴史の視点から見れば一時的な事件に過ぎないかもしれないが、昨今の世界情勢を見れば、世界の食料にこれらと同程度のインパクトを与える事案は、また間違いなく発生する。仮に発生しなくとも、食料確保に関する環境負荷は減らすべきであり、また不測の事態に対する食料安定供給のレジリエンスも、食材の多様性の確保や地産地消の促進を図って、高めていくべきである。

日本では、クジラも地域によってその利用の歴史や、利用される鯨種、加工調理方法が異なり、リッチな食文化を形成している。世界でも、多くの地域で、鯨を含む海産哺乳動物を食料として利用してきた歴史と独特の食文化が存在している。これらをすべて野蛮だ、やめるべきだとすることはあまりに横暴であり、それぞれの地域の食料安全保障をも損なうことになる。

山口県下関の鯨丼(日本鯨類研究所提供)

クジラを環境保護のシンボルと見るのはわからなくはない。しかしそれと持続可能なクジラの利用を、クジラが特別だとする価値観から否定して、押し付けることとは別物である。

食料としてその命をいただくことと、その生き物に感謝すること、が矛盾しない文化は日本を含めてたくさんある。その文化から見ると、食料とする牛や豚などの家畜を単なる肉の塊と見る考えかたにこそ違和感を感じる。食べていい動物は工業原料のように扱い、自分の価値観のもとでは特別と見る動物は環境保護のシンボルとして特別視することは、そもそも独りよがりである。その独りよがりをグローバルスタンダードであるとすることで、対立が生まれる。さらにそれが、食料安全保障に悪影響を与え、食による環境負荷を増大させることにさえつながる。

これが、鯨と捕鯨が持つ本当の象徴性ではないだろうか。食料安全保障の量的な観点からすれば、鯨肉はとるに足らないかもしれない。しかし、その全体から見ればとるに足らない量でさえ、一定の地域や民族にとっては重大事である。影響される地域や民族が限定的であるということは、それらを無視していいということではないはずである。

捕鯨防波堤論というものがある。捕鯨問題は海洋生物資源の利用や環境の保全の全体像からすれば小さな問題であるが、放置すれば防波堤全体の決壊につながることがある防波堤の小さな穴と同様の重要性を象徴している。持続可能な利用の原則を維持し、促進するためには、捕鯨問題に関する理解の促進と、より広い視野に立った対応が望まれる。

筆者:森下丈二(農林水産省顧問)

「鯨研通信」第498号(2023年6月)の記事を転載しています

この記事の英文記事を読む(Whaling Today)

Advertisement

クジラと食料安全保障

This post is also available in: English

コメントを残す