
「磯の香り」とのれんにうたう湊潮湯=堺市堺区
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むかしむかし―といっても明治、大正の時代、堺の大浜は巨大リゾート地だったそうな。海岸沿いには高級料理旅館がズラリと立ち並び、夏になると浜辺は海水浴客でいっぱい。「水族館」「歌劇場」「相撲場」「猿山」…。そして、コテージ風の建物で、海水を使った大規模温浴施設「大浜潮湯」もあった。海水を使った「潮湯」はのちに各地に広がったというが、現在は関西で1軒のみ。その1軒、堺市堺区出島海岸通にある銭湯「湊潮湯」で早速、ひとっ風呂浴びてきました。
南海本線湊駅から歩いて5分のところに「湊潮湯」はある。のれんをくぐり、板間にあがると、湯上がりに冷たいコーヒー牛乳を飲んでいる小学生たちに「ここにあるお菓子食べてええで」と番台に座っている女性が笑顔で声を掛けている。「ホンマにええの? ありがとう!」。筆者の心はあっという間に子供のころの《昭和30年代》にタイムスリップした。
「子供は大切にせなあかん。この子らが大人になってまた来てくれる。『子供のころ、よく両親と入りにきたんですよ』と、子連れのお母さんが来てくれる。それが一番うれしいわ」。そんな話をしてくれたのが「湊潮湯」を切り盛りしてきた3姉妹の三女、勝又光子さん(78)だ。
「もう3姉妹やないの。おととし長女のサク子が86歳で亡くなって、いまは姉と2人なんよ」

湊潮湯は大正12年創業―というから102年になる。戦後、光子さんたちの父・杉坂友一さんが経営を担った。その友一さんが亡くなるとき「おまえら3人でこの銭湯を守っていってくれ」と言った言葉を三姉妹でずっと守ってきたのだ。
脱衣場は昔ながらの箱型。カギのついたゴムひもを腕につけて風呂場に。中は「潮湯」「炭酸湯」「電気風呂」「サウナ」に分かれている。さっそく「潮湯」につかった。ピリピリ、チクチク―なんとも気持ちいい。なめると塩辛い。本物の海水だから当たり前だ。
ここから2・5キロ先の沖まで地下にパイプを通して海水を吸い上げ、1度タンクにためて濾過(ろか)したものを沸かして使っている。
「昔はすぐそばが海やったから、海水取るのも楽やった。けど、堺は工業地帯になってコンビナートをつくるためにどんどん海を埋め立てた。おかげで長~いパイプになってしもた。中に砂がたまったり、貝やいろんなものがついて詰まってしまう。しょっちゅう掃除せなあかんのよ」
さすがにパイプ、ボイラーの管理や風呂場の清掃などは業者に任せている。「もうトシやしね。けどその分、お金がかかる」と光子さん。創業102年は立派な歴史。町の小さな銭湯とはいえ、何らかの支えがないと「潮湯」の文化は…と思う。
共同で経営している姉とも《後継ぎ》の話はまだ何もしていないという。「それはその時になったら考えるわ。体の動くうちは私が頑張る。お嫁さんも手伝ってくれてるし」
頑張ってや! 筆者もコーヒー牛乳をグビリと飲んだ。
かつては国内有数のリゾート地
堺の海岸沿いは昔から「臨海工業地帯」だと思っていたら、明治、大正時代は国内でも有数のリゾート地だったという。
明治21年に阪堺鉄道(現在の南海電鉄)の難波―堺間が開通。大浜海岸沿いには「一力楼」など高級料理旅館がズラリと立ち並んだ。そして同36年に大阪で開催された「第5回内国勧業博覧会」の第2会場となった堺には、各地から多くの人たちが訪れた。人気を博したのは当時、「東洋一」といわれた日本初の本格的水族館だった。

それにしても、なぜ堺がリゾート地として発展したのだろう。その答えは堺市博物館の学芸員、矢内一磨さんが示してくれた。
「明治後半から大正、昭和の初めにかけて、鉄道の発達にともない、各地で遊覧地や宿泊娯楽施設が整備されていきます。同時に都市部では市民が《余暇》をどう過ごすか―ということが注目され始める。鉄道を利用し郊外に出て健康的に《余暇》を過ごす。海水浴場あり水族館ありで交通の便もいい堺は、大阪市民の余暇の場所としてうってつけの地だったんですよ」
ここに絵地図がある。昭和9年の室戸台風被害や同10年3月の火事で全焼した「堺水族館」を現在の南海電鉄が再建。海水を使った「大浜潮湯」をはじめ、演劇場や遊園地などの大娯楽場の地図である。
水族館エリアには「猿舎」や「アシカ島」「野外ステージ」があり水族館前には「龍神噴水塔」。そして大浜潮湯エリアは子供たちの遊び場の他に魚釣り、麻雀室、囲碁将棋室、卓球ホールなども完備され、ポスターには《お子様の楽園 家族づれのパラダイス》と書かれている。

内国勧業博覧会も開催
明治36年に大阪で開催。敷地はこれまでより2倍広く、期間も153日間。メイン会場は大阪市の現在の「天王寺公園」で第2会場が堺市の「大浜公園」。会場には農業館、林業館、水産館、工業館、機械館などのテーマ館が建てられ、将来の万博を意識した「参考館」では初めて諸外国の製品が陳列された。イギリスやドイツ、フランス、ロシアなど十数カ国が出品。人気を呼んだのはアメリカ製の自動車(8台)だった。

筆者:田所龍一(産経新聞)
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