
旧陸軍大刀洗飛行場の戦跡で、航空機を敵の攻撃から守る格納庫である「掩体壕」=福岡県筑前町(一居真由子撮影)
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山々に囲まれたのどかな田園風景からは、かつてここに西日本最大の陸軍航空拠点が置かれたことは想像し難い。福岡県筑前町や大刀洗(たちあらい)町などにまたがる「旧陸軍大刀洗飛行場」。当時東洋一ともいわれ、現地に残るいくつもの戦跡がその歴史を物語る。基地機能は昭和20年の2度の大空襲でほぼ壊滅し、住民を含め多くの人が命を失った。特攻隊の中継基地として多くの隊員の出撃を見送った場所でもある。
戦後80年の今年、関連遺構のうちの一つであるコンクリート製の構造物「掩体壕(えんたいごう)」が補修工事を終え、4月1日に一般公開された。軍用機を空襲から守るための施設で、高さが7・3メートル、幅36メートルある。2機の戦闘機が入る大きさで、当時駐機していた機体を空襲から守った。
戦争の記憶の風化を防ぐため、筑前町が2億4千万円をかけ再整備し、企業版ふるさと納税やクラウドファンディングも活用された。近くにある「大刀洗平和記念館」の岩下定徳事務長(64)は「長年風雨にさらされてひびが入り、安全面が懸念されていたが、戦争の傷痕を伝える施設として保存を求める声が多かった。戦跡のフィールドワークに活用してほしい」と語る。敷地内には駐車スペースやトイレも設置され、平和学習でも訪れやすくなった。

1万人を養成
周辺には掩体壕のほか、航空教育隊の正門▽軍用機による射撃訓練に使われた「監的壕」▽「飛行第四連隊」の本部庁舎前庭に設置されていた時計塔-といった戦跡がある。各施設を紹介する戦跡マップも作成され、各スポットをめぐることができる。
大刀洗飛行場は、第一次世界大戦が終結した翌年の大正8年に完成した。飛行隊本部や航空機製作所、航空技術兵の学校など次々と関連施設が設置され、総面積は約394万平方メートル。昭和15年に開校した大刀洗陸軍飛行学校は、九州や岡山、京都、朝鮮半島にあった学校の「本校」として18の分校を持ち、鹿児島の知覧基地もこの飛行学校の分校だった。約1万人の飛行士を養成したといわれる。

しかし昭和20年3月、米軍B29の空襲により壊滅的な被害を受け、多くの民間人も亡くなった。終戦間際には多くの特攻要員を養成し、特攻機の中継基地となった。同年5月25日にはこの飛行場から直接、特攻出撃をする命令が下され、重爆撃機「飛龍」を改造して特殊爆弾を装備した「さくら弾機」2機と「ト号機」2機が出撃し、さくら弾機の搭乗員8人が帰らぬ人となった。
児童も犠牲に
大刀洗平和記念館は、大刀洗飛行場の歴史を発信する施設として隊員の遺品や遺書を展示し、戦争の悲劇を伝えている。戦争体験者を招いた講演会も定期的に開催しており、4月26日には佐賀市の鳥谷邦武さん(98)が講演。鳥谷さんは戦争末期に旧陸軍の特攻隊員となり、終戦後はシベリア抑留も経験した。特攻が編成されたときの気持ちを「どういう死に方をするかだいぶ迷い、結局は諦めるしかなかった。親への遺書に生き延びたいなんて書いたら届かない。本音は書けないので白紙で出した。(仲間は)死にたくねえなと何度も言っていた」と語った。

隣接する朝倉市には、米軍による爆撃で児童31人が犠牲となった「頓田(とんた)の森」もあり、遺族らが毎年慰霊祭を営んでいる。児童らは空襲警報が鳴ったため集団下校中、標的になる飛行学校兵舎前を避けようとUターンし、頓田の森に避難したところ、爆弾が炸裂(さくれつ)したという。
頓田の森は現在「平和花園」として整備されている。世界から戦争がなくならない中、関係者は幼くして絶たれた命に思いをはせ、継続的に伝える意義を発信し続けている。
筆者:一居真由子(産経新聞)
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