1939年、当時の満州国と外蒙古の国境線で起きたノモンハン事件。日本とソビエト連邦をそれぞれ後ろ盾とした戦闘は、日本軍が直面した大規模な近代戦だった。その「失敗」が両軍にとって転換点となった。
3SWNUCHWUNPB3PXZ4CGWTSGULU

ノモンハンでの戦闘で、ソ連軍が遺棄した戦車のそばをほふく前進する日本軍兵士=1939年7月(共同)

This post is also available in: English

1939(昭和14)年、日本から約2千キロ離れた当時の満州国と外蒙古(モンゴル人民共和国)の国境線で起きたノモンハン事件。日本とソビエト連邦をそれぞれ後ろ盾とし、4カ月に及んだ戦闘は、日清戦争以来、勝利を重ねてきた日本軍が直面した大規模な近代戦だった。一方、日本軍内の意思疎通の欠如、責任の所在やガバナンス(統制、管理)の不透明さも浮かび、日本軍の「失敗」の典型例ともされる。

中国東北部とモンゴル東部を分けるハルハ河。39年5月11日、大平原を流れる河川一帯の国境線を巡って始まった紛争は、日ソによる軍事衝突へと発展した。両国で各2個師団以上とされる計9万人を動員。規模の大きさから「宣戦布告なき戦争」と呼ばれる。

満ソ間ではもともと国境紛争が頻発していたが、日本は日中戦争が継続中だったため、中央の大本営陸軍部(参謀本部)は「不拡大方針」を示した。しかし、関東軍(満州国に駐留する日本軍)は39年4月25日に示した「満ソ国境紛争処理要綱」を根拠に、国境線が不明確な地域での軍事行動に乗り出して戦線を拡大。ノモンハン事件は長い間、死傷者が1万8千~2万人に上った日本が一方的に大敗したとされてきた。

91(平成3)年のソ連崩壊後に公文書史料が公開され、新たな二つの事実が明らかになる。その一つが、ソ連軍の死傷者数だ。事件直後は9284人とされたが、実際には2万5655人と日本軍を上回っていた。

「戦略的にはソ連が勝利したものの、激戦だったことがうかがえる。事件は極東の局地紛争との位置づけだが、多大な損害は日ソ両国に強烈なインパクトを与えたはずだ」。防衛研究所の花田智之主任研究官(47)が説明する。

もう一つは、ソ連軍でも中央の参謀本部と現地の軍司令部との間で戦略方針に齟齬(そご)があり、次第に中央の意向に従う形で指揮統制が図られたことだ。ソ連は「衛星国」化したモンゴルに36年から軍を駐留させ、日本軍を壊滅状態にした39年8月攻勢に向けて兵力や兵站(へいたん)を充実させた。

ソ連軍を指揮したG・ジューコフは、日本軍について「兵は勇敢だが高級将校は無能」と評した。

塹壕でソ連軍戦車を待つ日本軍兵士=1939年 (Wikimedia Commons)

日本軍は、05(明治38)年の日露戦争での勝利以降、ロシア・ソ連の軍事力を軽視していた。ノモンハン事件の直前、「満ソ国境紛争処理要綱」を起案するなど「事実上の軍司令官」と目されたのが、関東軍作戦参謀の辻政信だ。陸軍少佐だったものの、強気一辺倒な姿勢が組織内では有能と評価され、結果的に関東軍の独断専行を招いた。

一方、参謀本部の高級将校らも十分な実戦経験がなく、関東軍の実情にも精通していなかった。花田氏は「実際、関東軍上層部は辻の起案を決裁した。参謀本部も『不拡大方針』を示していたが、関東軍の軍事行動を黙認していた側面もある」と語る。

《低水準にある我が火力戦能力を速やかに向上せしむるにあり》

顧みられなかった戦訓

ノモンハン事件停戦から2カ月後の1939(昭和14)年11月、大本営は戦訓を探るべく同事件の研究委員会を設置。翌年1月、火力兵器や兵站の重要性を強調した報告書を提出したが、顧みられなかった。

重砲と戦車を装備したソ連軍に対し、火力で劣る日本軍は歩兵を中心とした白兵戦を展開。戦車に対しては、兵士が間近でガソリンを入れたサイダー瓶(火炎瓶)を投げつけて挑んだ。

《サイダー瓶をもって肉薄攻撃するも効果なく我が軍をして失意せしめたり》。主力の第23師団長、小松原道太郎は39年8月22日の日記に記した。同師団の損耗率は7~8割に達したが、関東軍作戦参謀の辻政信は幻となる「9月攻勢」準備にこだわった。

事件後にまとめられた報告書。火力兵器の充実などを訴えている(防衛研究所戦史研究センター史料室所蔵)

後に辻らは更迭されたが、弾薬や食糧が尽きて窮地から「無断撤退」したり、捕虜になったりした現場指揮官らには、上層部から自決が強要されることもあった。防衛研究所の花田智之主任研究官は「強権的な作戦指導が強いられ、後につながる精神主義が垣間見える」と説明する。

日本側はソ連側の「8月攻勢」について一部情報を得ていたが、具体的な策を講じなかった。研究委員会の戦訓も生かされないまま、米国などとの戦争に突き進む。

41(昭和16)年7月、辻は再度引き立てられ、参謀本部に異動。翌年のガダルカナル島の作戦など、強硬策を再び立案していく。研究委員会委員を務めた陸軍中佐の小沼治夫は、同年9月に高級参謀としてガダルカナル島に出征。自ら近代戦の要件として重要視した火力兵器や兵站を欠いた厳しい戦いを強いられた。

「その後」と重なる既視感~取材後記

「みんな戦車につぶされて煎餅のようになってよ、ひでえ戦いだった」。幼いころ、ノモンハン事件に従軍した父方の大叔父が涙ながらに語っていた話を思い出した。ソ連軍の猛攻の前に塹壕から出ることができなかったという。

作戦や白兵戦を重視する一方で、情報や兵站を軽視。振りかざされる精神主義、理不尽とも思える死と生-。ノモンハン事件の戦場は、その後の太平洋戦線などでの日本軍と重なり、既視感すら覚える。

ただ、防衛研究所の花田智之主任研究官によると、ソ連軍も事件直後は教訓を生かせていない。1939年11月~40年3月のフィンランドとの冬戦争で、大戦力だったソ連軍は苦戦。フィンランドは国土の10%を失ったが、現在も「国土の90%を守った」とする同国の歴史認識は興味深い。

その後、ソ連は軍備の近代化を図る。花田氏は「ノモンハン事件と冬戦争はソ連にとって大きな転換期だった」とし、これらを踏まえて、45(昭和20)年の対日戦でも十分な作戦・兵站が必要だとの認識に至ったとみる。

日本にとっても日ソ中立条約を締結し、南進論にかじを切る転換点となったが、独ソ戦に備えるというソ連の思惑を十分に見抜けなかった。

筆者:池田祥子(産経新聞)

■ノモンハン事件 1939(昭和14)年5月、ソ連の影響下にあったモンゴル人民共和国と、日本の傀儡(かいらい)国家だった満州国の国境をめぐる衝突から発展した大規模戦闘。関東軍は最高統帥機関・大本営陸軍部(参謀本部)の戦闘不拡大方針に反して攻勢をかけたが、ソ連軍の総攻撃で壊滅的打撃を受け、同年9月に停戦が成立した。日本で対ソ開戦論が後退し、南進論が優勢となる契機の一つになった。

2025年5月14日付産経ニュース【深層の真相 防衛研リポート】を転載しています

This post is also available in: English

コメントを残す