
三味線を愛し、お座敷に愛された瓢屋小糸さん。96歳となった今も円山花柳界(かりゅうかい)を支え続けている =東京都渋谷区(納冨康撮影)
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再開発が進む東京・渋谷。駅前から道玄坂を上って脇道へ入ると、円山町のネオン街に、板塀の料亭がひっそりとたたずむ。奥から小唄とともに、小気味よい三味線の音色が漏れてきた。
円山芸者の瓢屋小糸(ひさごやこいと)さん(96)。「最近、手や腕が痛くてね。こんな年まで芸者をやると思わなかった」。慣れた手つきで三味線の調弦を始めた。清元、義太夫、長唄、端唄、小唄…。客のどんなリクエストにも即興で応じ、三味線一筋で円山花街を支えてきた。お座敷ではお酒は飲まない。「冷静にお客さんの様子が分かるから。たばこはお尻から煙が出るほど吸うねえ」と1日2箱の「ピース」を手放さない。

昭和4年、目黒で生まれた。五反田の花街が近いこともあり、三味線は6歳から弾き始めた。戦時中、父から「この非常時に弾くな」と怒られたほどのめりこんだ。20歳で芸者の世界に入り、3年ほどたって円山花街へ。「瓢屋小糸」は、そのころからの芸者名だ。当時、円山町には40軒ほどの料亭が軒を連ねた。夜な夜な芸者たちが行き交った芸者階段は今も残る。

「ごひいきのお客さんはほとんど天国へ行ってしまった…」
円山町は東急のお膝元。東急グループ創業者の五島慶太氏からは「いま円山にいる芸者を呼べるだけ呼べ」と、入れ代わり立ち代わり芸者衆が呼ばれた。
島倉千代子の「からたち日記」を作詞し、昭和歌謡界に影響を与えた西沢爽氏も常連だった。西沢氏からは「君、ギターをやりなさい」と勧められたが、「私は三味線が好きなのでやりません」と断った。漫画家の富永一朗や、大相撲の元横綱・北の富士、元大関・増位山などにも呼ばれた。
「お客さまから世の中のことを教えてもらった。ただこの世界が好き。三味線が好き」。芸事では負けたくないという気持ちでやってきた。
往時は400人を数えた円山芸者はいま、小糸さんと喜利家鈴子さん、喜利家三吉さんの3人だけに。「渋谷和芸」として、三味線や日本舞踊などを披露する会を開き、芸を広めることにも努めている。

8年前にお座敷で倒れ、救急車で運ばれた。心筋梗塞だった。それでも、「死ぬまで三味線を弾き続けたい」と、再び帰ってきた。
お座敷では体の痛みも忘れる。
「今が一番幸せ。こんな年でも呼んでもらえるのは幸せなことでしょ」
今宵も小糸姐さんの三味線が円山町に鳴り響く。
筆者:納冨康(産経新聞写真報道局)
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