
香港人劇作家、荘梅岩さんが投稿した自らの「墓碑銘」(フェイスブックから)
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「複雑な気持ちですね。これを書いたとき、香港がここまでひどくなるのに、まだ二、三十年かかると思っていましたが、現実は予想を上回りました」
香港を代表する劇作家、荘梅岩(そうばいがん)さん(49)に東京でインタビューをした。彼女が2011年に書いた戯曲『野豬(やちょ)』を今月、劇団「文学座」が『野良豚(いのしし)』として上演するのに合わせて来日したのだ。
観劇した後、その感想を質問したのだが、心にぐさりと刺さったのは、彼女が吐き出すように語った次の言葉だった。
「でも、香港でいま起きていることはもっと、みにくい…」
自由か生活か
荘さんの作品は、香港舞台演劇賞で最優秀脚本賞を7回受賞するなど評価が高い。
1989年6月4日の天安門事件で一人息子を殺され、当たり前の弔いさえできない老夫婦の葛藤を描き、同賞を受賞した『5月35日』が代表作である。
香港ではしかし、言論の自由などを規制する香港国家安全維持法が2020年に施行されて以降、中国本土同様、天安門事件の歴史に触れることはタブーとなった。現在、『5月35日』は事実上、上演禁止扱いだ。
『野豬』も10年以上、香港で上演されていない。9月9~21日、東京公演が行われた『野良豚』のあらすじはこうだ。
あるマチで再開発計画が進む中、一人の教授が消えた。美辞麗句に彩られた計画に潜む不都合な歴史を調べていた。新聞の編集長が言論の自由を盾に、その歴史を公表しようとする。しかし、生活のため計画の実現を望む市民に銃撃され、重傷を負う。自らの理想主義に疑問を抱いた編集長は政府に妥協し、その歴史を葬り去ろうとする…。

「消される」恐怖
「誰も直接、私の作品についてNOとは言わない。でも、脚本が採用されない、劇場が舞台を提供しない…。そして結局、上演できなくなるのです」
荘さんはインタビューで、香港の現状について説明した。
「(政府を非難すると)家族やパートナー、隣人の生活まで脅かされる。だから、みんな自己規制ばかりする。そして、密告…。この人を排除すれば自分の利益になると考え、密告する。香港はなんて、みにくい社会になってしまったのか」
彼女は今月初め、SNSを通じて、ある事実を公表した。01年に卒業した母校、香港演芸学院の創立40周年事業として、インタビューを昨年受けたのに、その動画がいまだに公開されていない。また、自らの作品の舞台挨拶に参加するなと圧力を受けた。舞台用のポスターからは彼女の名前が削除された…。
劇中の「教授」のように〝消される〟危機に直面していたのは、荘さん自身だったのだ。覚悟をもって事実を公表した彼女は、SNSに「荘梅岩 香港演芸生涯2001―2025」という自分の「墓碑銘」も〝遺影〟とともに投稿している。
そんなとき、表現の自由が認められた日本を訪れ、改めて向き合うことになったのが14年前に書いた自らの作品だった。
演劇の血脈
劇の最後に、イノシシ狩りの場面がある。狩りの最中、理想主義に燃える若い記者が、みんな元々はイノシシだったことに気づく。政府に牙を抜かれ、飼いならされるまでは…。イノシシは「自由、奔放、原始、堅強のシンボル」(荘さん)だ。
『野良豚』がユニークなのは香港出身の文学座員、インディー・チャンさんが日本語の台本を手掛け、演出を担った点にある。香港では上演困難な荘さんの作品を、香港人が日本で忠実に〝蘇生〟させたのだ。香港からもファンが多数詰めかけた。
荘さんは『野良豚』についてこう評している。「情熱的で迫力があり心を動かされた」と。
彼女は1976年に中国福建省で生まれた。父親は伝統演劇の演出家だった。文化大革命の際に4年間監禁されたのだという。一家は78年に香港へ逃れ、荘さんは現代演劇と出会う。
彼女がインタビューで一番、力を込めたのは「演劇」を語ったときだ。「演劇は私にとって一種の信仰かもしれませんね。劇場はいわば教会。たとえ教会に入れなくても、信仰つまり創作は続けられる」。自分に言い聞かせるように話した。墓碑銘を公開して10日後のことだ。
香港に戻った荘さんはSNSに綴(つづ)っている。「外の空気を吸ってホッとしたが、私の居場所は香港の舞台にある。これから何をすべきかは分かっている」
イノシシがよみがえった。
筆者:藤本欣也(産経新聞論説委員)
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2025年9月28日付産経新聞【日曜に書く】を転載しています
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