「50年不変」(50年変えない)という言葉が1997年ごろ、中国で流行語となった。同年7月1日の香港返還の際、中国政府は「香港の資本主義制度と高度な自治を50年変えない」と宣言。つまり2047年まで香港の内政に口を出さないことを約束した。このことは一般市民の間でも大きな話題となり、「今の気持ちは50年変えない」は、当時の男性が恋人にプロポーズする際の決めゼリフにもなったといわれる。
あれから23年。中国は当時の約束をほごにしようとしている。22日に開幕した中国の全国人民代表大会(全人代=国会に相当)で、市民の基本的人権に制限を加える「国家安全法」を香港に導入する方針を固めた。香港市民は当然ながら猛反発し、国際社会からも中国への批判が殺到しているが、習近平政権は全く意に介さず粛々と法案の審議を進め、早ければ6月中にも成立する運びだ。
約束を公然と破ることによる中国の国家イメージに与えるマイナスは大きい。今後、諸外国と外交交渉をする際、中国は何を言っても信じてもらえなくなる。昨年夏に盛り上がった香港の反政府デモはすでにピークを過ぎており、この時期に法案を無理やり通そうとする習近平政権の動機には不可解なところがある。
北京在住の人権派弁護士は「新型コロナウイルス問題で、米国など各国で中国に損害賠償を求める動きが広がっている。ここで香港問題を提起することで、焦点をそらすことが狙いではないか」と分析する。
ニューヨーク、ロンドンと並ぶ世界3大金融センターに数えられる香港には、欧米など多くの企業が進出している。香港が完全に中国政府の管理下に置かれれば、自由はなくなり、経済活動への影響が大きい。各国が大きなダメージを受けるのは必至だ。「中国は香港を人質に、新型コロナをめぐる損害賠償の動きを止めようとしている可能性がある」と同弁護士は話す。
今回の法律が成立すれば、中国の国家安全機関の警察が香港に常駐し、取り締まる権限を持つようになる。台湾に滞在中の香港の大学生が心配するのは「香港が新疆(しんきょう)になること」だ。
2009年7月に新疆ウイグル自治区のウルムチで、漢族の支配に反発するウイグル人が暴動を起こしたが、鎮圧されたあと、徹底的な粛清が行われ、共産党支配に少しでも不満を持つウイグル人が逮捕された。家族や友人らも「学習キャンプ」に強制収容され、長時間にわたり洗脳教育を受けるようになった。収容者は最大時、100万人を超えたといわれる。
香港では昨年の反中デモで、過激行動を辞さない「勇武派」と呼ばれるグループと、和理非(平和・理性・非暴力)と呼ばれる参加者がいた。国家安全法が成立すれば、すでに拘束された多くの勇武派メンバーが中国国内法で裁かれて重い判決を受けるほか、和理非派も「学習キャンプ」のような施設に入れられる可能性がある。
香港が新疆のようになれば、当然ながら進出した日本企業も大きく損害を被る。米国、英国、台湾などはすでに香港を支援し、中国のやり方を批判する声明などを出している。安倍晋三政権は国際社会と歩調を合わせて、中国の暴走を食い止めるべく行動を起こすべきだ。
筆者:矢板明夫(産経新聞台北支局長)
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2020年5月27日付産経新聞【矢板明夫の中国点描】を転載しています