約半年にわたり開かれていた大阪・関西万博が閉幕した。「いのち輝く未来社会のデザイン」として始まった万博は何を残すか。
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Parade on the closing day. MYAKU-MYAKU also bid a fond farewell (Photo by Mika Sugiura).

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184日にわたり、開かれていた大阪・関西万博が10月13日、閉幕した。会期中、多くの障害を持つ人が参加していた。台湾は民間企業としてパビリオンを出展、イベントを含めて100万人以上が訪れ、成功だったとする。時の国際情勢を反映する万博だが、未来のレガシーを作れるかはこれからにかかっている。

ボーイスカウト大阪連盟のメンバーによって一斉に降納された旗=10月13日午後(恵守乾撮影)

「国旗がなくても、大事なのは中身」

13日夕方、万博会場入口前に掲げられていた158の参加国・地域の国旗や博覧会事務局などの旗167枚がボーイスカウトらの手で静かに降ろされた。この中に、台湾の旗がなかった。台湾は博覧会国際事務局(BIE)に加盟しておらず、国としてではなく民間企業「玉山デジタルテック」として参加していたからだ。

邱揮立館長は「国としての参加ではなかったが、台湾の半導体技術が現代、将来においても欠かせないということを示せた。国だけでは(世界は)よくならない。人と人、人と自然、国と国が共になってこそ、よくなるというコンセプトを体現できた」と振り返った。

民間企業として出展となった「台湾」パビリオンの邱揮立館長(杉浦美香撮影)

台湾と知らずにテックワールド館を訪れる人も数多くいたという。来館者は約72万人。うち約2割が台湾からの来館者で、台湾国内での万博への関心の高さを示した。約300のイベントを実施、その参加者を含めると約110万人が訪問したという。

「大成功といえる。大切なのは国旗ではなく中身。万博は閉幕してしまうが、ここで我々が示した内容はどこにも負けない。まだ決まっていないが、このソフトを台湾で再現したい」と話す。

チャレンジドの挑戦

万博では、来場者としてだけではなく、多くの難病や障害を持つ人らが当事者として発表、情報を発信していた。

オーストラリア館で6月に行われた「パワーオブスピーチ:きこえる世界、わたしの選択肢」というイベントでは、人工内耳を装着した聴覚障害を持つ子どもたちが、英語でスピーチを行った。人工内耳を早期に装着すれば、発音や音楽、外国語の習得など、ハンディを全く感じられないぐらい言語能力を高めることができる。

自身も人工内耳をつけ、支援団体「Bridge Heart」を創設した池田優里さんは「人工内耳は私に音のある世界の扉を開いてくれた。万博という国際的な場で人工内耳のことを知ってもらうことができた意義は大きい」と話していた。

人工内耳をつけて英語で発表する池田優里さん(杉浦美香撮影)

日本の「難病の日」の5月23日には、多くの希少・難病患者が参加して歌や踊りを披露、「一人一人が違っていい」というメッセージを発していた。

イベントだけではなく、万博会場で目立ったのが、車イスで移動している参加者の姿だった。その中で、出会った親子に声をかけた。

生まれつきの染色体異常で呼吸器など重度の障害を持つ息子を車イスに乗せ、夫と移動していた田尻尚子さんは「障害者の優先レーンがあり、たくさんのパビリオンを見ることができた。息子は気管切開をしており話すことができないが、パビリオンを見て反応して喜んでくれた」と話す。これまでに3回、万博を訪れた。外に出て楽しむことができる機会になったという。

「万博を楽しめた」という田尻一家(杉浦美香撮影)

乳児を連れたお母さんたちも優先的に入場させてもらっていた。ネットでの事前予約、当日入場できるパビリオンで5時間待ちなど運営の問題点は散見されたが、弱者に配慮した万博だった。

約6%の海外来訪者

万博会場を歩いていて、外国人の姿が意外に少ないと感じた。実際、日本国際博覧会協会は海外入場者を12.4%を見込んでいたが6.1%(9月12日時点)にすぎなかった。今年、全国のインバウンドが過去最多を更新するペースで増えていることから少々物足りない数字となった。予約の複雑さなどが要因の一つになっているのではないかと感じた。

チェコからきた家族(杉浦美香撮影)

海外の来場者にインタビューしてみた。チェコから2週間の日本旅行を万博に合わせて計画したという5歳の子どもを連れた家族は「2日にわたって万博のチケットをとったがパビリオン予約は全くできなかった。ドバイ万博にも行ったがここまで混んでいなかった」と驚いた様子だった。子供4人を連れていたスーダンからの家族も、人の多さに辟易しながらも「自国の展示を見にいく」と話してくれた。

スーダンからきた家族(杉浦美香撮影)

惜しむたくさんの声

各パビリオンは最後まで、音楽やパフォーマンスで工夫を凝らした。ポルトガルは、2階テラスからポルトガルギターなどを演奏、オーストラリアはサーカスで喝采を浴びていた。各パビリオンの「おもてなし」が炸裂した万博だった。

オーストラリア館前でパフォーマンスするサーカス(杉浦美香撮影)
ポルトガルは2階テラスでポルトガルギターを演奏した(杉浦美香撮影)
ブラジル館のクロージングイベントではボサノバ歌手の小野リサさんが歌った(杉浦美香撮影)

万博は、国威の発揚の場であり、国際情勢を映し出す鏡にもなった。台湾は民間企業としての出展となり、戦火にあるウクライナは自国が受けている被害の状況を、仮想現実(VR)などで伝えた。

私は、1970年に大阪で開かれた万博のときは4歳だった。当時体験した動く歩道、テレビ電話など未来の技術とされたものが今やあたりまえになっている。今回の万博で示された技術が未来社会のショーケースとなりえるかについては、数十年後にわかる。

大人気だった水上ショー「アオと夜のパレード」で観客を見送る運営スタッフら(杉浦美香撮影)

一大イベントで生まれた交流そして訴えをイベントだけの一過性にしてはならない。閉幕はスタート地点だ。レガシーとなりえるかはこれからにかかっている。

各パビリオンも閉幕を惜しんだ(杉浦美香撮影)

筆者:杉浦美香(Japan 2 Earth編集長)

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