
80 Years since the end of the WWII, many veterans still face psychological trauma from the war.
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戦場での過酷な体験で兵士らを悩ませるトラウマ(心の傷)。先の大戦に従軍した日本兵にも心の病に苦しんだ人々はいたが、ほとんど顧みられず、傷痕は歴史に埋もれてきた。戦後80年を経て、なお戦争が及ぼす影響を探る。
密林内で、敵は地下に巡らせたトンネルを通って忍び寄ってきた。「特に最初の2カ月が一番怖い。戦争や戦場を知らない上、いつ敵と遭遇するかわからず、常に神経質になっていた」
米ニュージャージー州在住の日系3世、タケシ・フルモト(古本武司)=(80)。終結から50年を迎えたベトナム戦争(1955~75年)当時の記憶をたどった。

68年に大学を卒業し、米陸軍に入隊。70年2月、情報将校としてカンボジア国境近くの前線に赴いた。住民から敵の情報を得る任務だったが、集落を訪れると直前に敵は逃亡し、もぬけの殻。見えない敵や住民への疑心暗鬼にさいなまれる。

ゲリラ戦を展開する敵軍は、米兵を巧妙に地雷原へ誘い込む。待ち伏せされた上官が手投げ弾で片足を吹き飛ばされ、仲間が目の前で撃たれた。
「常に神経が高ぶっていたが次第に感覚が麻痺(まひ)し、どうでもよくなる。むなしさを覚えた」。米軍は密林を破壊するため上空から枯れ葉剤を散布。薬剤が敵味方構わず降り注いだ。
妻がいなければ自分も…
71年2月に帰還するも、周囲との人間関係がうまくいかず、ロサンゼルスから東海岸のニュージャージー州へ移住。自身では気付かなかったが、常に不満が渦巻き、怒りっぽい。「戦争前は楽観的で思いやりのある人だったのに…」。妻、キャロリン(77)も夫の異変を感じ取っていた。

向かいの消防署から出る消防車のサイレン音が、戦場で敵からロケット弾が撃ち込まれる際に鳴り響いた警報音と重なる。出動のたびにベッドの下に身を隠した。
変調の原因が戦場でのトラウマによる「(心的外傷後ストレス障害(PTSD)」だと判明したのは、だいぶ時間がたってからだった。
「ニューヨーク・マンハッタンには、ベトナム帰還兵のホームレスが今もいる。妻の支えがなければ、私も同じ立場だっただろう」
「日本兵も、同じだったのでは」
フルモトは日米開戦後に米国が設置した日系人強制収容所で誕生。45年12月に被爆後間もない広島に渡り、56年に家族で再渡米したが、日系人への差別は根強かった。

多くの米国民が兵役を拒否する中「米国人として認めてほしい」と入隊を決意。しかし、戦場が初めてテレビ中継されたベトナムの状況に、反戦運動が渦巻いた。「人殺し」「なぜ生きて帰ってきた」。多くの兵士と同様、帰還後投げつけられた言葉に傷付いた。
74年、妻の支えで不動産会社を創業し、成功を収める。だがベトナムでの記憶は長らく封印し、黙してきた。「国のために戦ってくれてありがとう」。十数年前、ニュージャージー州政府から感謝の意を示されたことで、ようやく戦場での経験を語り始めた。
オフィスには、帰還当初は飾ることに違和感があった勲章が置かれている。枯れ葉剤の影響で心臓を2回手術し、今も10種類の薬を服用するが「初めて感謝され、戦場で戦ったことを初めて誇りに思えた。終結から50年がたち、ようやく昔の私に戻ってきた」と感じる。
ベトナム戦争に負けた祖国は、あの時代を忘れようとした。先の大戦後の日本でも価値観が一変し、戦争はタブー視された。フルモトは自らの体験をたどりつつ、もう一つの祖国に思いを重ねる。
「辛(つら)かったのは、国のために戦ったのに社会から非難されたことだ。日本兵も、同じだったのではないか…」
=敬称略
筆者:池田祥子、小川恵理子(産経新聞)
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2025年8月8日産経ニュース【トラウマ 埋もれた傷痕】を転載しています
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