
橋本しをり氏
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東京でクリニックを営む医師であり、女性登山隊隊長としてヒマラヤの8000m峰に登頂した登山家、橋本しをり氏。日本で最古の、最も権威ある山岳会、日本山岳会の120年の歴史上初の女性会長として、さらなる高みを目指す。

2年前に日本山岳会の27代目会長に就任すると女性会員を自身のような登山のリーダーに育てる女性だけの同好会を立ち上げた。女性会員の増加につなげる方法の一つでもあり、それによって会員の減少傾向に歯止めがかかるようにという狙いもある。日本山岳会創設期に女性会員第1号となった植村クニさんにちなんで「クニ塾」と名付けた。
女性リーダーを育成する登山塾を立ち上げる
「クニ塾」では、本気でリーダーになりたいという女性会員10人ほどと毎月第4日曜日に山に行く。彼女たちは、初級レベルからより高度なレベルまで、ステップを踏んで登山技術や心構えを教え込まれる。1988年のヒマラヤ遠征時からの山仲間3人がインストラクターとしてサポートしている。2023年に開始してからこれまで20回、近郊の山から残雪の谷川岳マチが沢まで、山行を続けてきた。
女性の会長として、女性リーダーを育成するこの活動を、橋本氏は日本山岳会で同好会活動として力を入れる。新しい女性リーダーを育てることができれば、いま彼女たちがしているように、もっと多くの新しい女性会員を山に連れて行って将来のリーダーに育てることができる。そうすれば、これから登山を始めたいと思う若い女性や、子育てを終えて再び登山を楽しみたいと思う女性たちを、もっと多く受け入れることができる。女性会員の増加につながり、多様性にもつながると思う。

今年10月に設立120周年を迎える日本山岳会は、明治38(1905)年に、英国の登山家で宣教師のウォルター・ウエストンの勧めもあって、若い山好きの人たちによって設立された。現在約4,300人の会員が全国にいるが、女性は25%足らずである。平均年齢は70歳を超えている。会員数は、2001年に6,000人を超えていたのが、人口減少、高齢化の影響もあり、右肩下がりで減少している。2016年に制定された国民の祝日「山の日」以後、登山ブームによる登山人口が増加しているのにもかかわらず、なのである。
最近、東京の日本山岳会本部で行われたインタビューで、橋本氏は、日本山岳会は、さまざまの異なるバックグラウンド持っていても、山が好きという多様な人々の集まりで、「一度も登山をしたことのない人々に登山のすばらしさを経験してもらうこと、そして、高齢になった会員にいつまでも登山をしてもらうことが私たちの役割です」と述べた。
「みんなの日本山岳会」の理念のもと、「すべての人に山の楽しみを」というビジョンを掲げ、「ヒマラヤ登山から高尾山ハイキングまで」のキャッチフレーズで、登山の魅力を様々な人に広げたいと情熱を語る。

高齢者がいつまでも山に登る「人生100年時代」の登山
女性リーダーを育成する同好会活動と並んで、高齢化社会の多様化するニーズに対応するために、彼女は、高齢のベテラン会員を再び登山に向かわせる活動を推進しようとしている。かつてヒマラヤの山に登頂したり、日本アルプスの山々を登っていたベテランの会員がまだまだ(体力の衰えにあわせたやり方で)登山を楽しむ姿を見たいと、言う。
この「人生100年時代の安全登山」事業を推進するために、高齢になったいまでも山に登っている会員に、その秘訣を他の高齢会員にも公開するようにと、日本山岳会は昨年末アンケートを実施した。この構想は、もともと橋本氏が医療委員長をしていた2022年に120周年事業として提案したものである。
老いも若きもすべての会員が、登山の効用を享受することができれば素晴らしいことだと、彼女は言う。「登山は、気分を爽快にしてくれるし、山道を歩きながら、いろんなことを考えたりできるし、内省の時間も持てる。」最近の英国の医学雑誌に、登山は高齢になってからのフレイルを予防するのに最もよいスポーツ(の一つ)だという報告が載っていた、と言う。

登山の魅力に出会った中学時代
登山と出会ったのは、東京の中学生のときだった。登山を始める前は、読書が好きで、同時に、部活の生物部で、野原を走り回って蝶の採集に夢中になった。2年生の夏の学校登山で北アルプスの燕岳から槍ヶ岳まで縦走したとき、稜線の上から望む山々の壮観と、いくつものピークを越えて頂上に立った時の達成感に心を奪われ、今日まで彼女の人生を通して、登山の魅力の虜になった。
東京女子医科大学に進み、ワンダーフォーゲル部で登山を始めたが、冬山にも登る本格的な登山をしたいと、休部中であった山岳部を復活させた。大学の病院に勤めていた登山家で大学の先輩である今井通子の協力を得て復活させた。今井氏は、ヨーロッパアルプスの三大北壁を登った初の女性登山家である。
1980年に卒業すると、研修医の2年間は忙しくて登山に行くどころではなかった。医師になったら登山はあきらめなければならないと、決めていた。しかし、ある日、書店で取り上げた山岳雑誌で、1975年に女性として世界初のエベレスト登頂を果たした田部井淳子が率いる女子登山隊のブータン遠征の計画を知った。

「ブータンには一度行きたいと前から思っていた」ので、すぐに遠征に応募すると、医療担当隊員として採用された。83年の遠征に参加し、ブータンが外国人登山隊に開放したその年に、セプチュカン峰(5200m)に初登頂を果たした。
遠征中、隊員たちの健康管理のため、体調を毎日チェックする傍ら、高所での低酸素、低い気圧の環境が人体に与える影響に関する多くのデータを得ることができた。そしてこの経験が、彼女の生涯のフィールドワークのテーマになった。
ブータンのあと、彼女は多くの海外の山に登っている。1985年にキリマンジャロ、86年に中国・天山山脈のトムール峰(7435m)、87年にペルーでトクヤラフ(6032m)のほかに5000m級2峰にも登っている。もっと多くの高い山に慣れて、そしていつの日か8,000m峰に登る準備をしておきたかったからだという。
女子登山隊隊長としてGIIに登頂、第2世代の登山
そして、その「いつの日か」がすぐにやって来た。1988年に、中国・パキスタン国境のカラコルム山脈の高峰ガッシャブルムII峰(8035m)に日本女子登山隊隊長として登頂した。彼女にとっても、すべての隊員にとっても、初めての8000m峰であった。隊長として、彼女はできるだけ多くの隊員を頂上まで行かせようとしたという。その結果、8人の隊員のうち、5人が頂上に立つことができた。これはそれまでの伝統的な登山方式では異例であった。

彼女はこの登り方を、「第2世代の登山」と呼んでいる。田部井ら先達がしたような「第1世代」の女性の登山隊による登山では、そして男性の登山隊においてもそうだが、ヒマラヤに行く登山隊がそうであったように、頂上に立てるのは1人か2人で、その他の多くの隊員はその少数の登頂を下で支えているというものだった。彼女の「第2世代の登り方」はできるだけ多くの隊員が頂上に立てるようにするというものなのだ。
GIIは、彼女のその後の人生に深い影響を与えた「最も感慨深い」、忘れられない登山となった。
GII登頂後、彼女は2回の日中女子合同登山で日本側の登山隊隊長として、ヒマラヤの8000m峰に挑戦している。2002年にはチョー・オユー(8201m)に、2005年にはチョモランマ(エベレスト、8848m)に挑戦した。女性だけで山に登ることは大切で意味のあることなのだ。「男性と一緒に登ればもっと高いところまで、そしてもっと難しいルートを登ることができるかもしれないけれど、すべてのことを女性だけですることで、より大きな満足、より大きな登山の喜びが得られるのです」と彼女は言う。
米国ノースショアユニバーシティ病院で5年半の間、免疫学を研究したあと1994年に帰国すると、富士山に頻繁に登ってトレーニングを始めた。1999年のある日、新聞の記事で、がん体験者(患者および元患者)の富士登山を支援する日米合同の計画でボランテイアを募集していることを知り、医療と山行サポーターとして応募したところ、GIIの経験を認められて、この計画の実行委員会への参加を誘われた。
日米合同登山で女性のがん体験者が富士山へ
この「がん克服日米合同富士登山」は、がんの「生きがい療法」で知られる伊丹仁朗医師と米国乳がん財団の創設者で自身2度乳がんを体験している、アンドレア・マーティンが計画したもの。2000年8月に、女性のがん体験者と医療・山行サポートメンバー約460人が参加、山小屋に1泊して、ほとんどの参加者が3776mの頂上に立つことができた。
参加者の登山を手伝い、体調が悪くなった参加者を診察するという、本来の仕事のかたわら、橋本氏は
参加者の富士登山前と後の「生活の質(QOL)」スコアの変化を調べると、身体と精神の状態のどちらも、登山の後に大きく改善していることがわかった。

この富士登山で、登山活動がQOLに与える好ましい影響を示す結果に勇気づけられ、翌2001年に、登山を楽しみたいがん体験者の女性を支援するためのNPO法人「フロント・ランナーズ・クライミング・クラブ」(FRCC)を、富士登山の仲間と立ち上げた。
会員は、がん体験者、医療サポーター、山行サポーターを含む、20歳台から80歳台までの約80人で、毎月第2日曜日に日帰り登山をする。FRCC代表の彼女が、この山行計画を仲間で策定し、自身も山行に参加する。そのうえ、参加者の安全のために、登山道などの下見も行っている。
女性がん体験者の登山を支援するFRCCで275回の山行
活動を開始した2002年から今年2月までに、毎月の登山を275回も実施した。これらの山行は、参加者が登山技術と山に登る体力を少しずつつけていって夏には日本アルプスなどの山に登れるようにするように計画されている。毎回、30人ほどの会員が参加する。

2000年の日米合同富士登山のあとも、FRCCと米国乳がん財団との交流は続いた。2003年夏には、約40人のFRCC会員(半分ががん体験者)が、橋本氏も一緒に、医療サポーターや山行サポーターに付き添われて、富士山に登った。2000年の日米合同富士登山20周年を記念する行事であった。20年に広がった新型コロナ感染症のため、実施が3年遅れたのだ。
彼女は、高所環境における特殊な医学の専門知識の必要を考えて、2012年に国際山岳医の資格も取得した。現在72歳の橋本氏は、33年勤めた女子医大を辞めて2013年に、父親が小児科医院を開業していたところで始めた内科・神経内科のクリニックで、週4日地域の者を診る。休診日と週末は山岳会や登山活動のスケジュールでいっぱいだ。
週末には、ある日曜日は日本山岳会の女性リーダー育成のための登山塾を行い、別の日曜日にはFRCCの山行に行き、その他の休診日には、別の登山活動をして、その上に、日本山岳会の理事会を行う。さらに、地方の会員たちが何をしているか、どんな問題を抱えているかを直接自分の目で見るために、全国にある33の支部のイベントに参加したりするのである。
冬山シーズンが近づくと、休診日の週末、トレーニングのために、高尾山の登山口から頂上まで、3往復する。3往復すると、1100から1200メートルの高度を登ったことになるのだ。
「冬山には、相当強くないと行けません。それに、体力を維持しておくことは、FRCCや女性の登山塾で山に行くときにも役立ちます。」
自分がしてきた登山と山岳医療の多くの経験を通して得られた専門知識で日本山岳会に、そして多くの山好きの人たちに貢献できればうれしい、と言う。
「私がしてきたように、山岳会の会員に登山を楽しんでもらえたらすばらしいと思います。」
筆者:石塚嘉一(ジャーナリスト、元ジャパンタイムズ編集長)
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