
海自掃海母艦「ぶんご」で行われたジェームス・E・アワー氏の日米共同葬礼=7月12日、京都府舞鶴市沖(アワー氏遺族提供)
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ジム・アワー博士(1941–2024)は、米海軍士官、学者として活躍し、日米関係の第一人者、日米関係を心から深め続けた第一人者として、多くの人々に景愛されていました。佐世保に駐在した経験を持つアワー博士は、その後も政府や学術界で日米の相互理解と協力の促進に尽力しました。ヴァンダービルト大学日米研究協力センター所長として多くの日米の後進を育て、アジア太平洋の安全保障・同盟問題に多大な影響を与えました。
本記事は、アワー博士が逝去直前に応じた最後のインタビューです。

「日本の海上部隊の戦後再軍備(1945-71)」(著書)というテーマを取り上げたきっかけは何ですか?
マルケット大学卒業後、最初の任務は海軍士官としてのものでした。私は長崎近くの佐世保市を母港とするアメリカの掃海艇に配属されました。1945年の日本降伏後、日本の軍隊が正式に解体されたことは知っていました。1952年に設立された海上自衛隊は非常に小規模でしたが、掃海艇を含んでいることに気づき、さらに詳しく知りたいと思ったのがきっかけです。
日本の防衛力強化における衆議院議長・船田中氏の評価をお聞かせください。
防衛問題について米国や国内で議論しようとする政治家が少なかった中で、船田中氏は例外的な存在でした。彼は日本が米国と緊密な関係を持つことが非常に重要だと公言していました。また、昭和天皇とほぼ同年代で、天皇に意見を述べられる数少ない人物でもありました。
船田氏は海上自衛隊の設立を積極的に推進したわけではありませんが、防衛に関心のある日本人からその見解は尊重され、社会的地位の高さもあって、その努力は極めて高く評価されました。
[1960年に締結された日米安全保障条約第10条には、「条約発効後10年経過後、いずれか一方が条約終了の意向を通告すれば、1年後に条約は終了する」との規定があります。この規定をめぐり、自民党安全保障調査会は1965~67年にかけて条約改定か自動延長かで分裂しましたが、1968年6月、船田議長が自動延長支持を公式に表明し、議論に決着がつきました。]
1973年から始まった米空母の日本母港化は、a)ソ連との冷戦終結、b)日米が中国と関係を開いた後の中国軍事的侵略抑止、の観点からどれほど重要だったとお考えですか?
1973年に始まり現在も続く米空母の日本母港化は、極めて重要な意味を持ちました。これは米国が日本や民主主義諸国を支持する明確なシグナルでした。しかし、米国だけでは行動できず、オーストラリア、日本、インドが民主主義のためにより緊密な関係を築くことで、非民主主義国が対抗して何かを画策する以上の抑止力となります。
もしオーストラリア、日本、米国の連携が強固であれば、非民主主義国の経済的・その他の問題も、こうした民主主義国の協力関係がなければより危険なものとなるでしょう。

横須賀米海軍基地の「増岡桟橋」と「増岡公園」についてお聞きします。「ミスター・ネイビー」と呼ばれた増岡一郎氏とは誰で、1973年に米空母ミッドウェイの日本母港化決定においてどのような役割・意義があったのでしょうか?
増岡氏は幼少期の病気のため父の跡を継いで帝国海軍に入ることができず、代わりに国会の衆議院事務局職員となりました。1960~70年代、自由民主党の有力者である船田中氏が三期にわたり衆議院議長を務め、増岡氏はその秘書となりました。
その後10~15年にわたり、在日米海軍のジム・アワー海軍士官と共に、海上自衛隊と米海軍の情報共有や安全保障交流ネットワークの発展に尽力しました。日本側で米国との緊密な協力の必要性を公に語る政治家はほとんどいませんでしたが、国際的安定のために不可欠だと考えていました。
一連の非公式な協議の中で、船田氏は多くの米国指導者に、日米安保条約は米国にとって贅沢品ではなく、日本にとっては生存に不可欠であり、米国は必要なことを日本に遠慮なく要請すべきだと伝えました。ある晩、船田氏は公邸で米大使と副大使を別室に呼び、新首相の田中角栄氏は有能だが安全保障には詳しくないと説明しました。その日、船田氏は首相と会い、空母の日本配備の重要性を理解したと聞いたと大使に伝えました。日本は米国に命令はできないが、米国から意見を求められれば「賛成します、ぜひどうぞ」と答える、と首相が述べたのです。これをきっかけに、米空母ミッドウェイの日本母港化が本格的に始まりました。

太平洋全軍を指揮したデニス・ブレア提督は増岡氏の功績を称え、桟橋を「増岡桟橋」と命名する決定を発表しました。当初は懐疑的な声もありましたが、この取り組みは50年続き、約5年ごとに空母が交代しています。ソ連崩壊時の「血を流さない勝利」にも、海上自衛隊と米海軍の連携強化が大きく寄与したと言っても過言ではありません。増岡氏の役割こそ、彼の名を冠した記念碑や公園がある理由です。
未亡人の増岡陽子さんによれば、最期の瞬間、言葉は出なかったものの、紙とペンを求め「ジム・アワー、タフな男だ」と書き残したそうです。
共産中国との国交正常化は「大きな過ち」だったのでしょうか?
現在の中国との根本的対立の原因は何だとお考えですか? 共産中国の世界への門戸開放は「大きな過ち」というより「純粋すぎた」と言えます。非共産主義の中国が世界経済の中で普通で理性的なプレイヤーになると信じられていました。しかし、経済協力の方向ではなく、中国は世界最大の軍事大国を目指すようになりました。もし中国がこの方向で成功すれば、「大きな過ちだった」と言えるでしょう。

民間指導者や学者は、重大な悪影響をもたらした政策について、より「責任を負う」べきでしょうか?
そうでなければ、歴史から学ぶことはできるのでしょうか? すべての指導者や学者は、自らが策定した政策について責任を負うべきです。民間指導者や学者も、悪い結果をもたらした政策について責任があります。軍をコントロールするのが民間であるという現実は変わりませんし、変えるべきでもありません。しかし、それはリーダーに責任がないということにはなりません。もし責任が問われなければ、賢明な政策を強化し保証する方法を国民が知ることはできません。
米国と日本は、他の敵対的な国々と比べて移民が少ない中、どのように同盟をさらに強化できるとお考えですか?
米国と日本は同盟の重要性を等しく認識しています。現在、両国間では多くのアイデアの統合が進んでおり、今後も続くべきです。
両国は政策を調整し、特に敵対国に対して国内外で情報に基づいた政策を協力して進めることで、同盟をさらに強化できるでしょう。1941〜45年の悲劇を除けば、約200年にわたり米国と日本は太平洋と世界経済の中心で平和を維持するという共通理解のもと、親密な友人・パートナーであり続けています。

日本の若者や日米の将来世代に伝えたいメッセージは何ですか?
日本と米国の将来世代には、言語・文化・歴史など多くの違いがあっても、パートナーとして協力し成功を祝うべきだと伝えたいです。その協力の精神は太平洋での協力と繁栄から生まれました。これをさらに強化し、決して衰退させてはなりません。
聞き手:直塚洋三(日米関係学者)、長尾秀美(元在日米海軍報道官)
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