
樋口季一郎中将(樋口隆一氏提供)
This post is also available in: English
8月15日、わが国は終戦から80年を迎えた。戦争の惨禍や平和の尊さを考えるとともに、戦後、GHQ(連合国軍総司令部)による占領政策などで封印された歴史と記憶にも目を向けるべきだ。こうしたなか、戦時中、ナチス・ドイツの迫害からユダヤ人を救済し、終戦直前、日ソ中立条約を破って対日参戦してきたソ連の北海道侵略を阻止した樋口季一郎陸軍中将が改めて注目されている。樋口中将の孫で、バッハ研究で知られる明治学院大学名誉教授の樋口隆一氏にインタビューした。
「祖父は戦後、海外に展開していた軍人らを帰還させる北部復員監を退いた後は、いかなる職業にも就くことなく、静かに『慰霊の日々』を送っていた。亡くなった多くの部下らを悼みながら。宮崎県小林町(現小林市)で祖母方の田畑を耕していたときは、毎朝、畑から東西南北に向かって手を合わせていたそうです。博学多識で何でも知っていた。話も面白く、いつも引き込まれた。ただ、私にはほとんど戦争については話さなかった」

隆一氏は、年齢が58歳離れた祖父について、こう振り返った。5年前、祖父がひそかに書きためていた軍人時代の記録や戦後の遺稿を編著者としてまとめ、『陸軍中将 樋口季一郎の遺訓』(勉誠出版)を出版した。
戦後は静かに「慰霊の日々」
樋口中将は明治21(1888)年、兵庫県阿万村(現南あわじ市)生まれ。陸軍幼年学校、陸軍士官学校を経て、超難関の将校養成機関である陸軍大学校を合格・卒業した。情報将校としてロシアや欧州、満州などで活動した後、ハルビン特務機関長、参謀本部第二部長(情報担当)、第九師団長(満州・牡丹江警備)、北部軍司令官、第五方面軍司令官を歴任した。

「人道の将」と樋口中将が評されるのは、ハルビン特務機関長時代の昭和13(38)年、ナチス・ドイツの迫害から逃れて満ソ国境オトポール駅に殺到したユダヤ人難民にビザを発給して、輸送列車などで大連・上海へと向かわせた「オトポール事件」が大きい。
ユダヤ難民にビザ発給
隆一氏は「祖父が45(70)年に亡くなったとき、朝日新聞が祖父の死とユダヤ難民救出について報じ、親戚中が大騒ぎになった。私が小学生の時、日本で事業を始めたユダヤ人が訪ねてきて、祖父に感謝を伝えて『ぜひ、顧問になってほしい』と言ってきたことがあった。お土産の果物が豪華だったことを覚えている。祖父は訪問を歓迎しながらも、顧問については『それとこれは話が違うので遠慮します』と断った」といい、続けた。
「朝日新聞は救出されたユダヤ難民を『2万人』と報じたが、祖父は自筆原稿に『何千人』と書いていた。祖父はオトポール事件前年の第一回極東ユダヤ人大会でも、来賓として『ユダヤ民族は研究心に富み勤勉であり』『ともに手を携えて、世界平和と人類の幸福に貢献したい』などと祝辞を述べて問題になっていた。ドイツは同盟国だが『日本はユダヤ人迫害をやってはならない』という確固たる信念を持っていたようだ」
もう一つ、樋口中将の「功績」として伝えられるのが、北海道と南樺太、千島列島の防衛を担当していた第五方面軍司令官だった20(45)年8月、「自衛戦闘」を展開して、最高指導者・スターリン率いるソ連軍の「北海道侵略を阻止」したことだ。
ソ連の北海道侵略を阻止
ソ連は80年前の8月9日、有効だった日ソ中立条約を破って対日参戦してきた。満州や南樺太、朝鮮半島、千島列島に一方的に侵攻してきた。将兵だけでなく、無辜(むこ)の民間人も多数殺害され、凌辱(りょうじょく)された。

これに樋口中将は「飽ク迄自衛戦闘ヲ敢行スベシ」と命じた。15日に「終戦の詔勅」が発布された後、18日に始まった千島列島北端の「占守(しゅむしゅ)島の戦い」では、上陸してきたソ連部隊に大損害を与えた。
隆一氏は「スターリンは当時、トルーマン米大統領に『北海道北部の占領』を要求していた。祖父が『ソ連軍を撃滅せよ』と命じて自衛戦闘をしなかったら、北海道どころか東北までも分割占領されていた。私が中学生時代、ドイツが東西に分断され、ベルリンの壁が建設された(1961年~)。当時、神奈川県大磯町に住んでいた祖父が『隆一、ドイツの地図を書いてみろ』といい、ベルリンについて話をしてくれたことがある。私は大学院生になって、バッハ研究のため東ドイツに留学した。そのとき、『ドイツ分断の悲劇』を目の当たりにした。祖父には『ソ連の北海道占領を阻止した』という自負があったのではないか。ある米戦略研究者も『あの時、ソ連に北海道を侵略されていたら「自由で開かれたインド太平洋」もあり得なかった』というメッセージを私にくれた」と語った。
自衛のための戦闘
樋口中将は前出の『樋口季一郎の遺訓』に収められた文章で、ソ連の対日参戦について、次のように書き残している。
《(ソ連は)強盗が私人の裏木戸を破って侵入すると同様の、武力的奇襲行動を開始したのであった。かかる『不法行動』は許されるべきでない。もし、それを許せば、いたるところでこのような不法かつ無智な敵の行動が発生し、『平和的終戦』はありえないであろう》

《ソ連はこのようにエゲツナイことを平気でやるのである。彼らは紳士ではなく恐るべき横紙破りである》《私はこの戦闘を『自衛行動』すなわち『自衛のための戦闘』と認めたのである》
スターリンは戦後、樋口中将を「戦犯」として引き渡すよう要求してきたが、GHQのマッカーサー元帥はこれを拒否したという。背景の一つとして、ユダヤ人団体が樋口中将の引き渡しに反対して「圧力」をかけたといわれている。
マッカーサーは引き渡しを拒否
戦後80年、わが国を取り巻く安全保障環境が悪化するなか、一部メディアや識者は例年のように「平和」を前面に掲げ、防衛力整備に疑問を投げかけるような発信をしている。
樋口中将の『遺訓』には、次のような回想もある。
《昔の祖国日本には理想があった。その理想には多少の行き過ぎがあったにしても、ともかくも一定の進むべき目標があり、少なくとも酔生夢死(=酒に酔い、夢を見て一生を終えること)ではなかった(中略)現在はそれが全く喪失せられ、ただ獣類のごとく、はたまた鳥類のごとく、その日その日を生きかつ楽しめばよいとされている(中略)そのような民族が、はたして存在の価値があるのか》
日本人の魂に合致する憲法を
日本国憲法についても、こう記している。
《この(憲法)前文は、だいたいにおいてポツダム宣言に対し、『悪うございました。将来は米国の言うことを聞きます』と云う降伏宣言を成文化したものと見てよく(中略)『主権』を有する国家の憲法に挿入すべき内容ではない》
《平和主義を協調するあまり、媚態的に『不戦主義』にまで発展し、『他国の信義に信頼し、安全と生存を保持』せんとするは、あまりにも卑屈に堕し、現実に即せざる》

《我らの祖国日本が真に独立を恢復(回復)したとするならば、当然我ら日本人の魂に合致する憲法が生まれなければならぬ》
「平和」を守り、日本と日本人を守り抜くためにも、樋口中将の『遺訓』を参考にすべきではないか。
自分の頭で考えて、独自の判断
隆一氏は「国際情勢を見れば、世界各地で戦争が起きている。日本周辺では、ロシアと中国、北朝鮮がタッグを組んで、何をするか分からない。台湾有事も懸念される。とても『平和』ばかりを唱えている場合ではない。祖父は上意下達、がんじがらめの軍隊の中で、自分の頭で考えて、独自の判断が下せた。非常にユニークだったと思う。孫から見ても、すごい人でした。もし祖父が生きていたら、現在の日本について『そろそろ平和ボケはやめて、世界の中の日本の地政学的危険をよく考えろ』と言いたいのではないでしょうか」と語っている。
筆者:矢野将史(産経新聞)
◇
一般財団法人「樋口季一郎中将顕彰会」では、札幌市にある札幌護国神社に、樋口中将の功績をたたえる銅像を建立する活動を行っている。詳しくは、同財団HPで。
This post is also available in: English