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「いつまでもなかよく」
「私、合唱部に入ろうと思うの。よろしくね」
昭和51年9月。新潟小(新潟市)からの帰り道、合唱部員の真保(しんぼ)恵美子さん(59)に、広島からの転校生が声をかけてきた。横田めぐみさん(60)=拉致当時(13)=だ。
「私のことはヨコって呼んで」。明るさと積極性に、少しびっくりしたことを覚えている。
6年生の2学期からだったが、めぐみさんはクラスにすぐ、とけ込んだ。自身はほどなく「ボンボさん」と呼ばれるようになった。
合唱部ではソロパートを任される歌声。「ベルサイユのばら」で知られる漫画家の池田理代子さんのファンで、タッチの似たイラストを上手に描いた。字もきれい。背が高く、運動神経もよかった。自慢の親友だった。
卒業を控えた52年3月、友達からのメッセージを集めたサイン帳の1ページ目は、めぐみさんに書いてもらった。
《ボーンボさん、君とは4~5カ月のつき合いネ。中学はよりい(寄居)でしょ。もし同じ組になってもならなくてもいっしょにあそぼーね》
結びの言葉が今、胸に迫ってくる。
《では、いつまでも、なかよくしましょ――。 M・Y》
いつも一緒だったのに
「うちのめぐみがまだ帰ってないんだけど、そちらに行っていないかしら」
52年11月15日夜、めぐみさんの母、早紀江さん(88)から自宅に電話が入った。
進学した寄居中では、ともにバドミントン部に入り、帰り道はいつも一緒。だがこの日、真保さんは突き指で練習を休み、先に帰っていた。
「寄り道でもしているのかな」。母親に促され布団に入ったが、よく眠れなかった。翌朝、早紀江さんからの連絡を待っていたのだろうか。母親が居間のこたつに顔を伏せているのを見て、めぐみさんがまだ戻っていないことを悟った。
担任から、めぐみさんの失踪を告げられた。クラスには泣き出す女子生徒もいたが、涙は出なかった。「ひょっこりいなくなった。だからひょっこり、帰ってくる」。そう思っていた。
北朝鮮にいることが分かったのは、それから20年もあとのことだ。
「普通」を楽しみたい後悔がある。
めぐみさんが姿を消す2日前に開かれたバドミントンの新人戦で、ダブルスの選手に選ばれていためぐみさんの応援に行った。「ボンボコ~」。先に会場の体育館に到着していためぐみさんは、真保さんを見るなり、うれしそうに手を広げ、近づいてきた。けれど、「なんだか恥ずかしくて抱きつけなかった」。
再会したら、「普通のこと」を満喫したい。夕日がきれいな場所を訪れたり、おいしいものを食べたり。もしバドミントンがしたいといえば、すぐに体育館を探す。
10月5日のめぐみさんの60歳の誕生日当日、同級生たちが新潟で開催した再会を願うコンサートには、92歳になった母親の介護があって参加できなかった。母親と同世代の早紀江さんの体調をめぐみさんも案じているに違いない。お互い、父親は他界してしまった。
この日、還暦になった親友に伝えたい。
「ヨコ、こんな年になるなんて、思ってもいなかったよね。あちこち痛いところも出てくるけど、とにかく体だけは大事に。信じて待っていてね」
今度は絶対、私から抱きしめるから。
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2024年10月5日付産経新聞【60歳になっためぐみちゃんへ(下)】を転載しています
連載「60歳になっためぐみちゃんへ」
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