
旧満州で過ごした少女時代について語る﨑山ひろみさん=7月16日(川村寧撮影)
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旧満州(中国東北部)出身で、95歳にしてなお戦争の惨禍を語り継ぐ女性がいる。高知市在住の﨑山ひろみさんは約30年前から講演などを通じ、学徒動員や満州に侵攻してきた旧ソ連兵の恐怖、大陸からの引き揚げなど10代での過酷な体験を伝えることに心血を注いできた。根底に「平和は与えられるものではない」との信念がある。
60代後半から活動
﨑山さんが語り部を始めたのは、満州引き揚げから約半世紀がたった60代後半だ。父の故郷である高知で結婚や子育て、母の介護をして過ごすうちに「満州でいったい何が起きていたのか」との疑問がふくらんだ。仕事を定年退職し、時間に余裕ができたことも過去を振り返る契機になった。
満州に関する資料があると聞けば現地に足を運び、引き揚げ者から聞き取りもしたという。現在は県内外で講演活動をしている。


旧満州の撫順(中国・遼寧省)生まれ。南満州鉄道に勤めていた父が政治団体「満州国協和会」に転職したのを機に満州国の首都・新京(現長春)に移り住む。長じて敷島高等女学校に入学し、3年生で学徒動員を経験した。
後で知った極秘作業の内実
従事したのは「気球づくり」と呼ばれる作業。糊で和紙を貼り合わせたり、検品したりする日々が続いた。10代の少女には重労働だったが「親にも内緒。箝口(かんこう)令が敷かれていました」。
帰国後、当時つくっていたのは関東軍(満州国に駐留する日本軍)が計画していた「風船爆弾」(直径約5メートル)だったと知る。「実際に作業に関わった人でこの話ができるのは私しかいない」との思いから、講演では必ず伝えている。
忘れられない日付がある。大本営が関東軍などに対ソ戦準備を命じた昭和20年5月30日。この日以降、関東軍は持久戦に備え、全満州の4分の3を放棄するに至った。
「私たちには何一つ知らされていませんでした。棄民です。見捨てられたのです。一方で7月30日まで開拓団が送り込まれていました」
母から渡された青酸カリ
8月9日にはソ連軍が満州に侵攻。開拓団の集落からは身ぐるみはがされ、裸同然の人々が新京に逃れてきた。そしてソ連兵も襲ってきた。
﨑山さんの自宅も荒らされた。母からは「もしものときに」と小さなお守り袋を渡されていた。「(自決用の)青酸カリが入っていました」。ソ連兵の暴虐を恐れ、髪を切り落とし丸坊主になった。「周りの女の子は皆そうしていました」
日本は終戦を迎えたが、﨑山さんが家族とともに命からがら引き揚げたのは、それから約1年後。米国船で福岡・博多に着いた。陸地が見えたとき「もう使うことはない」と青酸カリを海に捨てた。日本の土を踏んだ21年9月10日が﨑山さんにとっての「終戦」だった。
語り部の活動は次女との二人三脚。最近では約2年前に旧満州の地を訪れた。当時家族ぐるみで付き合っていた中国人一家を探したが、行方はわからずじまい。ただ街の喧騒(けんそう)があの頃の記憶を呼び戻した。「満州で生まれ育った私には満州が故郷でしたから」と振り返り、力を込めた。
「平和は与えられるのではありません。(不断の努力で)確立するものです。その思いで語り部を続けています」
筆者:河合洋成(産経新聞)
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