
喜賓会が発行した「英文日本案内地図」の初版=渋沢史料館
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東京都北区の飛鳥山公園内にある渋沢史料館で、企画展「渋沢栄一と喜賓会-明治時代のインバウンド-」が開かれている。明治中期、外客誘致の目的で設立された民間機関「喜賓会」にまつわる史料が多数展示、国内で唯一とも言われる希少な所蔵史料も公開されている。開国まもない時代に、現代に通じる国際観光事業の重要性を訴えた渋沢翁のすごさが改めて伝わってくる。
観光事業の夜明け
昨年、訪日外国人観光客数は過去最多の3686万人を記録。格安のツアーも数多く設定されるなど、インバウンド需要への対応はわが国の主要産業と言っても過言ではない。だが明治時代、海外との間の移動手段は極端に少なく、行き来するのに膨大な時間と多額の費用を要した。また当時の日本は国際観光事業が未発達で、外国人観光客を受け入れる態勢がほとんど整っていなかった。
海外経験のある渋沢や貴族院議長の蜂須賀茂韶(もちあき)、実業家の益田孝らはこの現状を問題視。明治26(1893)年、外国人観光客誘致を目的とした非営利団体として喜賓会は発足した。本部事務所は帝国ホテル(千代田区)の一室に設置され、蜂須賀が会長、渋沢が幹事長、益田らが幹事にそれぞれ就任して活動が始まった。
通訳やガイド奨励
喜賓会はまず、旅館やホテルへの設備改善勧告、通訳や旅行ガイドの監督と奨励、国内の観光資源の整備など、外国人観光客を受け入れる態勢作りに尽力した。なかでも旅行案内書の制作に力を入れ、当時から人気のあった鎌倉、箱根、日光などの観光地の詳細を記述。これらは多国語に翻訳されて出版された。企画展では会が出版した『英文日本案内地図』などが公開されている。

喜賓会が関わった中でも最大規模の事業とされる、明治36(1903)年の第5回内国勧業博覧会の史料も展示されている。初の大阪開催となった同内国博は、昭和45年の大阪万博、今年の大阪・関西万博のルーツとして現在に通じる。開催決定の一報を受け、喜賓会は前年に大阪支部を立ち上げた。初めて外国の出展者が認められ、外国人観光客が多く訪れることが想定されたため、喜賓会も会場内外に通訳や案内を配置するなど、万全の態勢で内国博に対応した。
財政難で解散へ
外国人観光客誘致を推し進めてきた喜賓会だったが、日露戦争後の不況を境に、資金繰りが苦しくなり始める。さらに明治39(1906)年の鉄道国有法で、主要なスポンサーだった私鉄が消滅し、運営が行き詰まる。45年には鉄道院を中心に「ジャパン・ツーリスト・ビューロー」(現JTB)が誕生。対外宣伝や外国人観光客の接遇、旅行斡旋事業に取り掛かると、喜賓会の出番は失われた。
希少な史料も
大正3(1914)年3月、帝国ホテルで解散式を執り行い、約20年にわたる喜賓会の活動は幕を下ろした。晩年、渋沢は喜賓会の活動を振り返り、「決して無駄ではなかった。着眼点は確かに良かったと思う」と手応えを口にしている。解散に際して発行された『喜賓会解散報告書』は、訪れた人から「ここにしかなかった」と言われるほど希少な史料だという。

展示を企画した学芸員の関根仁さんは、近年のオーバーツーリズム(観光公害)という負の面にも触れ、「現代的な問題と渋沢の時代の外国人誘致を、喜賓会というキーワードで表現しようと思った」と展示の意図を説明。「外国人が日本に来て、それが国益になるという、明治時代の日本のあり方を、渋沢栄一というキーワード、喜賓会の活動を通じて見ていただけたら」と話した。
展示は5月11日まで。開館は午前10時~午後5時(入館は午後4時半まで)。一般300円、小中高生100円など。
筆者:宮崎秀太(産経新聞)
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