Total Views:18  (last 5 days) 
---- Daily Views ----
array(5) {
  ["2025-10-31"]=>
  int(5)
  ["2025-11-01"]=>
  int(6)
  ["2025-11-02"]=>
  int(2)
  ["2025-11-03"]=>
  int(1)
  ["2025-11-04"]=>
  int(4)
}
江戸時代の「鎖国」は本当に孤立主義だったのか。歴史家・鈴木荘一は、鎖国とは国防政策であり、日本の独立を保つための選択であったと主張する。
sakoku (2)

蘭館絵巻「蘭船の入港」。出島(長崎)に到着するオランダ船を見るフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトとその同僚、日本人妻・楠本滝が描かれている(Wikimedia Commons)

This post is also available in: English

日本の江戸時代(1600〜1868年)の鎖国政策は、しばしば「national seclusion(国の閉鎖)」と訳され、日本の孤立主義を象徴するものとして長らく語られてきた。しかし、「幕末史を見直す会」代表で、多くの著書がある歴史家・鈴木荘一氏は、この一般的な見方は本質をまったく捉えていないと指摘する。

JAPAN Forwardのインタビューで、鈴木氏は鎖国を孤立ではなく、明確な「国防のための行為」として語った。徳川幕府は、カトリック勢力による植民地拡張が世界を覆っていた当時の国際情勢に対応していたという。「それは閉鎖ではなかった。キリスト教勢力による間接的侵略から日本を守るための、戦略的な選択だったのだ」と鈴木氏は語る。

帝国的信仰に対する防衛の壁

鈴木氏によると、鎖国令は排外主義から生まれたものではなく、緻密な国家戦略の産物である。徳川幕府は、スペインやポルトガルがキリスト教を植民地支配への第一歩として利用していたことを理解していたという。宣教師がまず上陸し、次に兵士が続き、やがて主権の喪失が訪れる——―その過程を幕府は正確に見抜いていた。「イベリア諸国はまずキリスト教を布教し、その後、反乱を扇動して現地支配者を排除し、教皇の権威の下に領土を組み込んでいった」と鈴木氏は指摘する。「日本は単にその道筋を拒んだにすぎない」。

もっとも、その拒絶はすべての外国人に対する敵意を意味したわけではない。改宗ではなく交易を目的としたオランダやイギリスのようなプロテスタント勢力には、長崎など限られた港を通じての接触が認められた。鈴木氏は、徳川幕府が「商業目的」と「支配目的」との間に明確な一線を引いたことを強調する。前者は受け入れ、後者は排したのだ。鈴木氏の言葉を借りれば、鎖国とは「戦争ではなく外交によって遂行された国防」であった。

奴隷売買禁止──秀吉に見る鎖国の原点

鈴木氏は、鎖国の起源を豊臣秀吉にまでさかのぼることができると指摘、秀吉を「奴隷解放の父」と呼んでいる。農民の身分から身を起こした秀吉は、九州のキリシタン大名—―有馬晴信、大村純忠、大友宗麟ら—―が仏教徒の捕虜を奴隷として売りさばいていると知り、衝撃を受けたという。銃や火薬と引き換えに、人間をポルトガル商人と取引していたのだ。

豊臣秀吉  (Wikimedia Commons)

日本人が海外で奴隷として売られているという報告が届くと、秀吉は奴隷売買を禁止し、1587年に「バテレン追放令」を発した。鈴木氏によれば、この政策はしばしば「キリスト教迫害」として誤解されているが、実際には人身売買を阻止するための措置であったという。

秀吉は宣教師たちに対し、奴隷売買をやめるのであれば、信仰そのものは静かに続けてよいとまで伝えていた。「それが秀吉の真意だった」と鈴木氏は語る。「秀吉は主権を守ると同時に、人間の尊厳をも守ろうとしたのだ」。

サン・フェリペ号事件とスペインの脅威

鈴木氏は、1596年のサン・フェリペ号事件を、日本の警戒心が確信へと変わった決定的な転機として挙げている。スペインのガレオン船サン・フェリペ号が土佐沖で座礁し、日本の法に従って積荷が没収された際、船の航海長が「スペインはまず宣教師を送り、次に軍隊を送って世界を征服してきた」と豪語したと伝えられている。

「秀吉は激怒した」と鈴木氏は説明する。宗教が帝国支配の道具として用いられているという秀吉の疑念を裏づけるものだった。鈴木氏によれば、その後に起きた長崎での二十六聖人処刑も、盲目的な迫害ではなく、外来勢力による侵略の脅威に対する直接的な対応として理解すべきだという。

「この事件を境にして、日本は宗教が侵略の武器になり得ることを悟った」と鈴木氏は語る。

イエズス会内部の対立と鎖国への道

鈴木氏は、イエズス会内部の対立が日本の運命をも左右したと指摘する。アジアにおける布教方針をめぐって、イエズス会の宣教師たちは「中国を優先すべきか」「日本を優先すべきか」で分裂していたのだ。宣教師ガスパール・コエリョは、キリシタン大名の支援を受けて日本を軍事的に征服することを主張した。一方、アジア巡察師であったアレッサンドロ・ヴァリニャーノは、忍耐と外交による布教を説いていた。鈴木氏によれば、こうした議論の存在そのものが、日本が単なる布教地の一つではなく、教会の帝国的戦略における「中核的標的」と見なされていたことを示しているという。

やがて徳川政権が成立すると、これらの苦い教訓が引き継がれた。幕府は再び外国勢力が日本に足場を築くことを防ぐため、宗教活動と海外渡来に対して厳格な統制を敷いたのである。

家康から家光へ──統制された貿易の論理

徳川家康のもとで、日本は欧州諸国との交易を続けていたが、そのすべてが厳重な監督のもとに置かれていた。家康は九州を通じてスペインおよびポルトガルとの通商を認めていたものの、やがてこの体制が南方のキリシタン大名に過度の富と影響力を集中させていることに気づく。そこで家康は交易の重心を東へ移し、イギリス人航海士ウィリアム・アダムスに土地を与え、浦賀(東京湾)などの港を通じた新たな交流を促進した。

三代将軍・徳川家光の時代になると、カトリック宣教師の潜入や隠れキリシタンの地下組織が無視できない規模となっていた。鈴木氏によれば、この時期のイエズス会の書簡には、日本国内に推定60万人いたキリシタンを扇動して反乱を起こさせる計画が明記されていたという。

徳川家光 (Wikimedia Commons)

「家光は、事の重大さを理解しており、日本の領土の一片たりとも外国の手に渡ることは国の恥であると宣言した」。この姿勢こそが真のリーダーシップの体現であった。「権力を失っても、国を失わない覚悟を持つ為政者」――それが家光だったという。

島原の乱

多くの場合、島原の乱(1637〜1638年)は単なる農民一揆として説明される。しかし鈴木氏の見解によれば、それは日本とカトリック帝国主義との長きにわたる攻防の最終章であった。教科書では、九州の農民が重税に耐えかねて起こした反乱として描かれることが多いが、鈴木氏はその説明が宗教的・地政学的側面を無視していると指摘する。「単なる年貢一揆ではなかった。外国勢力の支援を背景にした武装反乱であり、長年の地下布教活動の直接的な帰結だった」。

若きキリシタン指導者・天草四郎を首領とする反乱軍は、原城に立て籠もり、キリスト教の旗を掲げ、やがて訪れるはずの援軍を待ち続けた。しかしその援軍は現れなかった。鈴木氏は、反乱がキリシタン大名の旧領を中心に発生したことに注目する。そこはかつてイエズス会が潜伏ネットワークを維持していた地域であった。鈴木氏は「反乱が広がったのは、まさにカトリックの影響が残っていた地域だった。偶然ではない。そこはかつての布教拠点の残滓だったのだ」と説明する。

徳川幕府は、この大規模な反乱とキリスト教的象徴の再出現に強い危機感を抱き、12万を超える兵力を動員した。数か月に及ぶ苛烈な籠城戦の末、幕府軍は原城を陥落させ、反乱勢力を完全に殲滅した。

外国勢力の終焉

島原の乱の鎮圧は単なる国内の反乱鎮圧ではなく、日本が欧州勢力の影響圏から完全に離脱した決定的な瞬間であった。

「幕府の視点から見れば、島原の乱は、危険が決して消えていなかったことの証明だった。宣教師たちは潜入を続け、組織を築き、再び反乱を夢見ていた。鎖国は、日本を植民地化から守る防波堤となったのだ」と鈴木氏は語る。

反乱の後、幕府はすべてのポルトガル人を追放し、キリスト教の信仰を禁じ、対外関係を長崎を通じた厳格に管理された交易に限定した。こうして訪れたのが、250年に及ぶ前例のない平和の時代――「徳川の平和(パックス・トクガワーナ)」と呼ばれる時代である。

孤立・産業・成長の基盤

鈴木氏は、鎖国が日本の発展を妨げたという通説に異議を唱える。むしろ、長期の平和が国内産業の繁栄と技術革新の根づきを可能にしたのだ。輸入が途絶したことで、職人たちは砂糖や染料、織物などの外国製品を日本国内で代替生産する術を身につけていった。「外国との貿易がなくなったことで、日本は自給自足の体制を築いた。人々は必要なものを自らの手で作るようになった。その安定こそが、経済の成長と職人技の発展を支えたのだ」と鈴木は説明する。

鈴木氏はさらに、この経済的自立こそが明治維新後の急速な近代化の基盤を形成したと主張する。統制された孤立は停滞ではなく、自立への助走期間であったことを示す証拠だという。

現代への教訓

鎖国を現代の保護主義と比較できるかと問うと、鈴木氏は感情的・思想的な政策とみなす考えを退けた。鎖国は状況に応じて実行された現実的な国家運営であったという。「強国は、自国に最も利益があるから自由貿易を唱える。しかし国力が衰えれば、保護主義に転じるものだ」と鈴木氏は言う。

第一次世界大戦後のイギリスによるブロック経済や、トランプ政権下のアメリカが実施した関税引き上げを引き合いに出し、いずれも根底にあるのは「自国を守るための同じ論理」だと指摘する。

「国家には、開くべき時と閉じるべき時がある。鎖国は世界に背を向けた政策ではなかった。日本が世界の中で自らの存在権を守るための選択だったのだ」と鈴木氏は結論づけた。

筆者:ダニエル・マニング(JAPAN Forward記者)

This post is also available in: English

コメントを残す