8月の日本では「平和」という言葉が神聖視される。同時に「戦争」は絶対悪として全否定される。そこには日本自身の国家安全保障はどうするのか、という疑問が立ちはだかる。
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全国戦没者追悼式が開かれた日本武道館=8月14日、東京都千代田区

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8月の日本では「平和」という言葉が神聖視される。同時に「戦争」は絶対悪として全否定される。8月は原爆投下や敗戦の記念日が続くから戦争の惨禍や平和の貴重さを改めて想起し、戦死者を悼む慣行だといえよう。

「平和の質」問わず

だが米国では平和には自由や独立という条件をつけ、戦争も自国の防衛や正義のためにはときには不可避だとして、日本との戦いの回顧でもその戦勝を礼賛する。この日米の断層から日本側の8月の平和論をみると、では日本自身の国家安全保障はどうするのか、という疑問が立ちはだかる。

日本で8月に叫ばれる「平和」はとにかく戦争のない状態だけを指すといえよう。平和の質や内容を問わないからだ。この点、米国でも世界大多数の国でも目指すべき平和には国家や国民の自由や独立が伴うという条件を必ずつける。

オバマ大統領も2009年のノーベル平和賞の受賞で「平和とは単に軍事衝突がない状態ではなく、個人の固有の権利と尊厳が欠かせない」と述べていた。

ノーベル委員会のヤーグランド委員長が、ノルウェーのオスロ市庁舎で、バラク・オバマ大統領にノーベル賞メダルを授与した=2009年12月10日(©ホワイトハウス)

ベトナム革命闘争を主導したホー・チ・ミン主席も「独立と自由より貴重なものはない」と繰り返し明言した。国家や民族としての独立や自由のためには平和を犠牲にしても闘うという決意だった。

だが日本での8月の平和論はとにかく戦争さえなければよい、という意味となる。その結果、いかなる戦争も否定ということになる。この「平和論」をいまのウクライナにぶつけたらどうなるか。戦争を止めれば、ロシアに全面占領されるだろう。

平和がよくて、戦争が悪いことは人間個人の次元では自明だといえよう。子供たちにまで「戦争は絶対にいけません」と述べさせる日本の「8月の平和論」も日本の敗戦での人間的惨禍を回顧すれば説明はつく。だが国家や社会が他国から武力で侵略され、その侵略を防ぐ自衛のための戦争も否定すれば、無抵抗、降伏となる。

原爆で被爆した広島県産業奨励館(原爆ドーム)(1945年10月撮影)
広島市の平和記念公園

防衛放棄でいいのか

日本の「8月の平和論」は平和をどう守るのか、戦争をどう防ぐのかも、まず語らない。対照的に第1次トランプ政権の「国家防衛戦略」は「戦争を防ぐための最も確実な方法はその戦争への準備を備え、なおかつ勝利する態勢を保つことだ」と宣言していた。戦争を仕かけられても必ず勝つ態勢を保っていれば、そんな相手に戦争を仕かけてくる国はいなくなる、という意味だった。

世界のどの国も自国防衛の軍事的な能力や意思は明確に保っている。その姿勢が他国からの軍事攻勢を抑止し、平和を保持できる、という思考なのだ。

一方、日本の国内で日本人が集まり、ただ心の中で、言葉の上で、「平和」と叫び続けても、日本国の平和が守られる保証にはならない。そもそも平和とは日本と外部世界との関係の状態であり、日本国内の状態ではないからだ。日本がいくら平和を求めても、それを崩すのは日本の外の勢力なのだ。

「平和」という言葉の極端な呪縛のために、わが国家、わが郷土を防衛することも最初から放棄してしまう。そんな日本でよいはずはないだろう。

筆者:古森義久(産経新聞ワシントン駐在客員特派員)

2025年8月16日付産経新聞の記事を転載しています

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