
ゲーム『アサシンクリードシャドウズ』で主人公の一人として登場する弥助(Ubisoft 提供)
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1581年、強大な日本の戦国武将・織田信長は、京都の屋敷である異国の客を迎えた。屈強な体格をもつアフリカ出身の男性だった。この男は後に「弥助」として歴史に名を残し、西洋の大衆文化において「最初の黒人侍」として不朽の存在となった。書籍や記事、そして近年のNetflixアニメなどでは、弥助は下僕から侍へと成り上がった戦士として描かれている。最近では、ゲーム『アサシンクリードシャドウズ』において、戦国時代の激戦のさなか、信長のそばに忠実に仕える姿が描かれている。広く語られている伝説によれば、弥助は自らの故郷から遠く離れた日本で、剣士として地位と名誉を授けられたという。これは想像力をかき立てる魅力的な物語だ。
だが、それは本当なのだろうか。言語学者アラリック・ノーデ氏による新たな研究が、弥助の伝説に詳しく迫っている。『写本の相違と歴史的曖昧さ:「信長公記」と弥助に関する本文研究』と題されたこの研究は、弥助の物語が現実というよりも「神話」に近い可能性があると論じている。
伝説 vs. 記録
弥助の物語が西洋で大きな注目を集めたのは、ここ10年ほどのことにすぎない。こうした物語の中で、弥助はしばしば「織田信長に仕えた実在の黒人侍」、つまり16世紀の日本で人種の壁を打ち破った英雄として描かれている。しかし、このような描写は乏しい証拠に基づいたものだ。弥助の日本での生活はほとんど記録されておらず、史料としては『信長公記』や、信長の家臣・松平家忠の日記といったごく限られた同時代の文献にしか登場しない。
にもかかわらず、多くの著者はこの限られた証拠を慎重に扱うのではなく、空白を臆測で埋めている。ノーデ氏によれば、西洋の研究者たちは「歴史的現実というよりも、現代の関心事を反映した仮定をしばしば挿入している」と指摘する。つまり、現代の理想や想像が、歴史の記録の中にかすかにしか現れない弥助という人物に投影されてきたのだ。

ひとつの例は、「侍」という称号そのものにある。戦国時代の日本において、侍とは単なる戦士ではなく、正式に認められた武士階級であった。通常、彼らには世襲の姓(家名)、俸禄、そして自身の家臣が与えられていた。弥助を織田信長が正式に侍に取り立てたという広く知られる説は、戦国時代の明確な証拠ではなく、後世の記録に基づいているにすぎない。
黒奴(くろやつ)
弥助の名は、16世紀の最初期の西洋文献には登場しない。信長の時代に日本で活動していたイエズス会の宣教師たち、たとえばルイス・フロイスやロレンソ・メシアといった人物は、弥助について直接名を挙げることなく、ポルトガル語の「Cafre(カフレ:黒人を指す言葉)」という用語で黒人の人物を記している。
これらの報告書が日本語に訳されると、Cafre は「黒奴」(くろやつ、こくど)という語に置き換えられていた。これは、弥助の個人としての存在よりも、人種や身分を強調する呼び方であり、彼が個別に重要な人物というよりは、背景的存在として見られていたことを示唆している。
しかし時を経て、とくに英語圏で語られる物語において、こうした記述は「現代のアイデンティティや文化的象徴性の物語に沿って再解釈されてきた」とされる。つまり、弥助の物語は「戦国時代の侍としての黒人英雄」を求める現代的な願望に応じて再構築されてきたのだ。
ノーデ氏はこのような語られ方を「神話化(mythologized)」と呼んでいる。
史料の謎
ノーデ氏による最新の研究で特に重要なのは、『信長公記』の異なる写本間に存在する食い違いに踏み込んでいる点である。この研究は、弥助の伝説が、いかにして語り継がれる中で変化していったかを明らかにしている。日本の歴史学者たちは以前から、すべての歴史資料が等しく信頼できるわけではないことを認識していた。『信長公記』には複数の写本が存在する。信長の時代に近い初期の写本は、より簡潔で事実重視の内容となっているのに対し、信長の死後数十年が経過した江戸時代(1600~1868年)の写本には誇張が見られる。
ノーデ氏の研究では、『信長公記』の初期写本である「池田本」が、「戦国時代の歴史を理解するうえで最も正確な史料」であるとしている。その理由は、元の出来事に最も近い時期に書かれたと考えられるためである。
対照的に、後世の写本である「尊経閣本」は、徳川幕府下の江戸時代に編纂されたものであり、「徳川時代の脚色に満ちている」とされる。不幸なことに、多くの西洋の文献はこの脚色された写本を出典としている。それはこの版が近代において最初に英訳されたものの一つであったためである。
では、どのような脚色が加えられていたのだろうか。「尊経閣本」では、弥助が信長に紹介された場面が劇的に描かれている。その記述によれば、信長との対面後、「その黒人は俸禄を与えられ、『弥助』という名を授けられた。さらに、鞘(短刀)を託され…さらには住居まで与えられた」という。この写本では、信長が弥助の体格と外見に感嘆し、土地や儀礼用の刀、そして公式な職務まで授けたとされている。

欠けているピース
しかし、ノーデ氏の研究は注意を促している。これらの鮮やかな描写は、初期の「池田本」には一切登場しないのだ。「弥助」という名前すら記されていない。これらの詳細は、後世の写本家によって加筆されたものであり、戦国時代の現実というよりも、江戸時代の物語性を反映したものであると考えられる。日本の歴史学者に重視されている池田本では、弥助は信長の外国人従者として記されており、肌の黒さと優れた体格が言及されているのみで、地位や役職の授与についての記述は存在しない。
この新たな研究は、「弥助が脇差(短刀)や俸禄、住居を与えられた」とする話は、「戦国時代の現実ではなく、後世の政治的な作文の産物である可能性が高い」と主張している。つまり、江戸時代の書き手たちが「信長が弥助を侍にした」という物語を歴史の中に織り込み、それを多くの現代の論者がそのまま事実として受け取ってしまった、というのである。
姓がないという事実
写本の分析にとどまらず、歴史家たちは命名慣習や当時の社会的文脈にも注目し、弥助の地位を見極めようとしている。この点においても、弥助が侍であったという説は揺らいでいる。当時の侍は、正式にその地位を授けられると必ず「姓(家名)」を与えられた。封建時代の日本では、それが名誉と身分を示す印だった。
しかし、弥助に関して姓が記された歴史的記録は一切存在しない。彼は常に「弥助」という個人名だけで呼ばれており、その表記もさまざまな漢字で登場していることから、実質的には音に基づくあだ名のようなものだったと考えられる。研究では、「弥助に関する歴史資料の中に、姓がまったく登場しないというのは極めて異例である」と述べており、この欠如は「彼が正式に侍として封ぜられたという主張に重大な疑問を投げかける」としている。
もし信長が弥助を正式に侍として取り立てていたのであれば、史料には適切な日本の姓が記録されているはずだ。それは、武士階級に取り立てられた際の慣例だったのである。
侍ではなく、従者
さらに、「弥助」という名前そのものが多くを物語っている。この名は、高貴な武士にふさわしい称号というよりも、当時の使用人や下級の家臣に一般的だった命名パターンに従っている。地位のある侍たちは通常、二文字または三文字の漢字を使った名前を持ち、しばしば所属する氏族や出自を示していた。しかし「弥助」という名前は、当時の「下級階層や従者の名前の典型」に合致している。
「~助」という接尾語がついた名前は、従者や足軽などに多く使われ、上級武士にはほとんど見られなかった。もし弥助が本当に侍に取り立てられていたならば、もっと格式ある名前や称号が史料に記されているはずだが、ノーデ氏は、「そのような記録は一切存在しない」と指摘している。
姓がないこと、名前の形式が身分の低い者のものであること、そして報奨の記述が信頼性に乏しい後世の資料にしか見られないこと──これらすべての要素が、弥助が正式に侍として認められていたわけではないことを強く示している。もちろん、弥助は信長にとって大いに関心を引く人物であったことは間違いない。また、1581年から1582年にかけて信長の側近として仕えていたことも確かで、おそらくは従者あるいは護衛としての役割を果たしていた。しかし、信長が彼に侍の地位を授けたという同時代の証拠は存在しない。ノーデ氏は「弥助という記録上の名前は、公式な武士の称号ではなく、実用的あるいは非公式な呼称にすぎないと考えるべきだ」と結論づけている。
歴史と虚構が交わるとき
弥助を「侍」と呼ぶかどうかに、いったいどれほどの意味があるのか。この区別は単なる言葉の問題ではなく、歴史がどのように解釈され、時を経て変容していくかという本質的な問題を含んでいる。弥助の物語は、アフリカと日本の歴史が交差する極めて稀な例であり、世界的に注目を集めるのも無理はない。
だが、この事例が示すように、大衆文化はしばしば事実を先行して創造してしまう。ノーデ氏の研究は、「後世の書き手や現代の読者が、歴史的現実ではなく現代の文化的関心を過去に投影することで、いかに簡単に“神話化された人物像”が生まれてしまうか」を強調している。弥助の場合、「黒人の侍」という英雄像への強い欲求が、わずかな史料に基づいて一つの壮大な物語を形づくってしまったのだ。
この問題は、より広範な意味を持つ。日本の歴史資料に登場するアフリカ系の人物は極めて少なく、弥助を早期のグローバルなつながりや多様性の象徴として称賛したくなる気持ちは理解できる。しかし、その称賛が誇張された主張に基づいているとすれば、結果として歴史の真実に対して不誠実な態度となってしまう。
ノーデ氏の研究が示すように、このような物語には「より統合的で、証拠に基づいたアプローチ」が求められている。具体的には、歴史家は日本語の一次資料と外国語の記録を慎重に照らし合わせる必要があり、また、現代の物語に都合よく合致しすぎる後世の加筆や誤訳にも細心の注意を払わなければならない。
筆者:ダニエル・マニング(JAPAN Forward記者)
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