
広島市の平和記念公園で営まれた昨年の平和記念式典=2024年8月6日
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《安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから》。広島市の平和記念公園の原爆死没者慰霊碑の碑文だが、かつてインドの法学者、パール博士(1886年~1967年)は主語が日本人を指すと受け止め、疑義を呈した。「原爆を落としたのは日本人ではない」と-。そして、広島に〝もう一つの慰霊碑〟が建った。
平和記念公園から大通りを挟んで東へ数百メートル。開創400年の本照寺の門前には、「東京軍事裁判 インド代表判事パール博士筆慰霊碑在當山」と刻まれた石柱がある。

刻銘が示すように、パール氏は連合国による「勝者の裁き」として、復讐(ふくしゅう)の意味合いが強い極東国際軍事裁判(東京裁判、昭和21~23年)で唯一、全被告の無罪を主張したインド代表判事だ。
昭和27年11月、広島での世界連邦アジア会議開催に伴い、パール氏は平和記念公園を訪れて献花し、死没者慰霊碑に黙禱(もくとう)をささげた。田中正明編著「パール博士『平和の宣言』」(小学館)に詳しい。
碑文を目にしたパール氏は通訳のナイル氏を通じて二度、三度とその意味を確認。憤りとともに表情に疑いの色を浮かべた。
「この『過ちを繰返さぬ』という過ちは誰の行為をさしているのか(略)ここにまつってあるのは原爆犠牲者の霊であり、原爆を落したものは日本人でないことは明瞭である。落したものの責任の所在を明かにして、『わたくしはふたたびこの過ちは犯さぬ』というのなら肯(うなず)ける」(同書から抜粋)

表現の曖昧さを明確に批判し、こうも述べた。
「原爆を投下した者と、投下された者との区別さえもできないような、この碑文が示すような不明瞭な表現のなかには、民族の再起もなければまた犠牲者の霊もなぐさめられない」(同)
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碑文を考案したのは英文学が専門で、被爆者でもあった雑賀忠義広島大学教授(故人)。昭和27年、当時の浜井信三市長(故人)による委嘱だった。
旧制広島高同窓会有志が発行した「廣高とヒロシマ」(平成7年)によると、雑賀氏は慰霊碑に祈りと誓いの言葉を刻みたいという市長の思いを聞き、その日のうちに文案をまとめ、翌日完成させた。
英訳文は草案を経て、米国の大学関係者から意見を聞くなどして決まった。
《過ちは繰返しませぬから》の部分は「For we shall not repeat the evil.」。主語は「We」、つまり「われわれ」だった。
ここで言うわれわれは、日本人も含む全人類を指す。碑文を批判したパール氏に、雑賀氏は「狭量な立場からは原爆の惨禍は防げない」との抗議文を送っている。その際、先の英訳が使用された。
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広島市の見解では、「過ち」は戦争を指すという。もっとも、パール氏はこう喝破していた。
「これまた日本の責任ではない。その戦争の種は、西欧諸国が東洋侵略のために蒔(ま)いたものであることも明瞭だ」(『平和の宣言』から)
前出のナイル氏とかねて親交があった本照寺の25代住職、筧義章氏(平成4年に87歳で死去)は広島滞在中のパール氏に、《過ちは-》に代わる碑文を書いてほしいと懇請した。
田中氏の別の著作によれば、パール氏は一晩想を練ってベンガル語で揮毫(きごう)。日本語にも訳され、境内の「大亜細亜悲願之碑」に刻まれた。

《激動し変轉(へんてん)する歴史の流れの中に 道一筋につらなる幾多の人達が万斛(ばんこく)の思を抱いて死んでいつた しかし大地深く打ちこまれた悲願は消えない 抑壓(よくあつ)されたアジアの解放のため その嚴粛なる誓にいのち捧げた魂の上に幸あれ ああ眞理よ あなたは我が心の中に在る その啓示に從つて我は進む》
「碑文は抽象的だが、戦争で散った人、原爆で亡くなった人を思いつつ、『アジア民族主義』を表現したのではないか」とは、筧氏の孫で、現住職の義就さん(54)。
パール氏が広島を訪問し、碑文を書いたのは昭和27年4月に米国による日本の占領が終わってわずか半年後。義就さんは「当時の日本人が言いたくても言えなかったことをパールさんが代弁してくれた」と考えている。

73年前、パール氏の発言で降って湧いた「碑文論争」。被爆・戦後80年の今年5月、自民党の西田昌司参院議員は主語が曖昧だとし「日本人が発しているとすると、意味が180度変わってしまう」と論じ、改めてクローズアップされた。
広島市は「すべての人びとが、原爆犠牲者の冥福を祈り、戦争という過ちを再び繰り返さないことを誓う言葉」と碑文の趣旨を説く。解釈は当初から一貫しているという。
筆者:矢田幸己(産経新聞)
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■原爆死没者慰霊碑 世界で初めて投下された原爆によって壊滅した広島市を、平和都市として再建することを念願し、昭和27年8月6日に設置。中央の石室には、原爆死没者名簿がおさめられている。
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