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暖かい5月の朝、東京都内の綾瀬駅でJAPAN Forward編集長の内藤泰朗と合流した。内藤は案内人の高橋光一さんと待っていた。三人で吉岡政光さんの自宅に向かった。その後、吉岡さんとの3時間近くに及ぶインタビューは、私の人生で最も貴重で、記憶に残る時間となった。105歳の吉岡さんは、彼の驚くような人生をしっかりとした口調で語り始めた。
死を覚悟
1941年12月8日未明、当時23歳の帝国海軍軍人、吉岡さんは九七式艦上攻撃機の搭乗員として空母「蒼龍」の甲板から離陸して、ハワイのオアフ島にある真珠湾に向かった。
目的地に到着し機体の下に固定された重さ約800キロの魚雷を放つと、真珠湾に浮かぶ戦艦「ユタ」は爆発し、艦体に大きな穴があいた。戦艦「ユタ」や戦艦「アリゾナ」、戦艦「オクラホマ」、その他のアメリカ合衆国の戦艦や航空機はその日、寿命に幕が降ろされた。同時に大日本帝国とアメリカ合衆国との太平洋での戦争がその朝、始まったのだ。
「二度と生きて帰ることはないかもしれない」―。真珠湾攻撃について初めて知らされた時、吉岡さんは、死を覚悟したと語った。攻撃に加わった者たちは、日本のため、それほどまでの覚悟で真珠湾攻撃に臨んでいた。
歴史の真実
真珠湾攻撃の後、私の祖父は米海軍に志願し、訓練を受けて空母の乗組員となり、太平洋戦争を戦った。終戦後、祖父は横須賀で占領軍の一員として半年ほど日本に滞在した。戦争中、特攻隊の攻撃を見たと話していた。そんな祖父の影響もあり、私は若い頃からアジア、とりわけ太平洋戦争と日本に興味を持っている。
しかし、いくら興味を持っていると言っても、歴史を体験した人の話を聞く機会は、戦後78年の歳月が経ち、それほどあるものではない。太平洋戦争を戦った吉岡さんの話は、歴史の真実であるがゆえに貴重なのだ。
吉岡さんの話に戻そう。
戦いの光景
吉岡さんは、真珠湾攻撃の前にはアジア大陸で援蒋ルートを遮る作戦に参加していた。援蒋ルートというのは、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連などの列強が、国民党の指導者である蒋介石を援助する(「援蒋」)ために使った東南アジアから中華民国に辿り着くジャングルや山を通過する道のネットワークを指す。
日本軍は当時、満洲国、朝鮮半島などや日本の本土を守るため、内戦状態にあった中国の、とりわけ中華民国の軍隊を率いる蒋介石と戦っていた。吉岡さんは、大日本帝国海軍の一員としてその援助をブロックする作戦に参加したわけだ。数年後、日本と列強との対立がエスカレートし、吉岡さんたちはオアフ島の空の上から真珠湾を攻撃するに至った。
吉岡さんは、80年以上前のことを細かく覚えていた。話しながら思い出していることがわかった。手を使って戦闘機の攻撃角度、離陸する姿勢などを示しながら生き生きと話した。黒煙が濛々と立ち込める中、戦艦「ユタ」を撃沈した瞬間を思い出し、目がキラキラと輝き、昔の戦いの光景が心の中で蘇っているようだった。
特攻隊の準備
しかし、吉岡さんは、戦後のことはほとんど語らなかった。戦争で亡くなった友人や他の戦死者を思い起こして靖国神社を参拝した。自ら放った魚雷で犠牲になった戦艦「ユタ」のアメリカ人乗組員の遺族には「申し訳ないと思う」と述べ、彼らのお墓にお参りして「深い敬服を表したい」とも語った。
吉岡さんと彼の同志たちは、戦争について謝る必要はまったくないだろう。なぜなら、戦争は、お互いの国の正義がぶつかりあった結果であるからだ。人命が失われることはもちろん、悲劇であるが、個人が謝ることではない。しかも、日本は当時、行き詰まりを蹴破って列強による悪質な世界秩序を平等な関係にしようとしたのではないかと、私は思っている。
戦争が終焉に向かっていくと、吉岡さんは特攻隊として出撃準備を命令された。しかし、部品が足りなくて飛べる飛行機がなく、1945年8月15日、生きたままに玉音放送を聞いた。真珠湾攻撃から終戦の日まで、吉岡さんはずっと死ぬ覚悟でいたが、奇跡的に何度も死線を超えて生き残った。
「宿敵」から友へ
インタビューの最後に、日本とアメリカがもっと協力する必要があると、吉岡さんは強調した。戦後、中国共産党との内戦で負けそうになった蒋介石は台湾に逃げた。今も台湾は中国共産党に威嚇される。その中国共産党は今や、日本を含め全世界の覇権を握ろうとしている。昔、「宿敵」だと呼ばれたアメリカはいま、日本と肩を並べてモンスター化した中国とどのように向き合うのだろうか。今回は、アメリカと日本は、ともに正しい道を選ばなければならない。
この一世紀、世界に起きた激変と世界の未来を、先の大戦に参加した105歳の生き証人はどう思うだろう。
筆者:ジェイソン・モーガン(JAPAN Forwardエディター、麗澤大学国際学部准教授)
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