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あの日、異国から来た無名ランナーが、日本人の視線を一身に集めた。前回1964年東京五輪の陸上男子1万メートルで、最下位になりながらもレースを捨てなかったセイロン(現スリランカ)の「ゼッケン67」。その物語は後に、小学校の国語教科書に載った。レースから57年、ランナーの孫娘は縁あって日本で仕事に就き、2度目の東京五輪を迎えた。「日本は2番目の祖国。運命かもしれない」。祖父の英姿をまぶたに浮かべ、30日夜の男子1万メートルにテレビの向こうから声援を送る。
群馬県渋川市の高齢者施設で働く介護福祉士、オーシャディー・ヌワンティカ・ハルペさん(29)。祖国スリランカの英雄として語り継がれる祖父の話を、母から聞かされて育った。
「家事と子育てに熱心な人だと聞いた。『何かを始めたら、最後までやり遂げなさい』。それが口癖だったそうです」
祖父の名は、ラナトゥンゲ・カルナナンダ。前回東京五輪では旧セイロンの男子1万メートル国内記録保持者として出場し、7万人の観衆で埋まる国立競技場に立った。1964(昭和39)年10月14日のことだ。
光村図書の「小学新国語 四年」に載った『ゼッケン67』は、こう始まる。
〈午後四時五分。スタンドのざわめきが消えて、観しゅうの目は、三十八人の選手がならぶスタートラインに注がれた。ピストルが鳴った。選手は、いっせいにスタートした〉
円谷幸吉が6位入賞したこのレースは、出場38人のうち9人が途中棄権した。400メートルトラックを25周する過酷な戦いは、最後の一人がゴールに駆け込み幕を閉じた-と思われた。
「67」のゼッケンをつけた選手はしかし、足を止めなかった。それがカルナナンダだ。冷笑交じりのやじを飛ばす観衆を横眼に、周回遅れの走りは続く。2周目。3周目。脇腹を押さえ、苦悶を浮かべながらの力走は、スタンドのやじをいつしか声援に変えていた。
〈だれもかれも、まるで自分の国の選手をはげますように、声を上げた。なみだを光らせながら、見つめている者もいた〉
観衆は彼のゴールを大きな拍手で包んだ。
「国には、小さなむすめがひとりいる。そのむすめが大きくなったら、おとうさんは、東京オリンピック大会で、負けても最後までがんばって走ったと、教えてやるんだ」
こう語ったカルナナンダは、試合の約1週間前から体調を崩していた。国の経済状況は苦しく、国の財源で五輪に選手を送るのは大変な事業だった。何周遅れになろうと、レースを捨てなかった理由である。
『ゼッケン67』が国語教科書に載ったのは、71年度と74~76年度。当時のシェアは約50%という。英訳された文章は、2016年度から中学3年の英語教科書でも紹介されている。
「小さなむすめ」の、そのまた娘が、オーシャディーさんだ。
祖父は五輪から10年後、水難事故により38歳で亡くなった。スリランカでは夏季五輪が近づく度に、57年前の力走がメディアで取り上げられてきた。
コロンボ大学で地理学を学んだオーシャディーさんは、防災について学ぶため、日本の大学院進学を志して16年春に来日。祖父の足跡が日本人の心の中にも刻まれいることを知り、驚いた。「祖父はいまも日本で生きている気がする」という。
群馬県内の日本語学校で学んだものの、大学院に進むには語彙が足りないと痛感していた。18年春の卒業に際し、進路に迷った。友人が会員制交流サイト(SNS)を通じて祖父の走る映像を送ってきたのは、帰国を考え始めていたころだ。
最後までやり遂げなさい-。「その映像を見たとき、祖父の言葉の意味が分かった」。介護の道を選んだのは、郷里で病床に伏す祖母(カルナナンダの妻)の存在があったから。
渋川市内の福祉専門学校でさらに2年学び、20年春にいま勤める高齢者施設に介護福祉士として就職。職場で知り合った日本人男性と結婚した。
スリランカではまだ行き届かない介護の技術を日本で身に付け、国元の後進に伝えるのがいまの夢だという。「何年かかるか分からないけど、いつか帰って学んだことを伝えたい。祖国への恩返しも、祖父の教えだと思う」
新型コロナウイルス禍の中で迎えた東京五輪は気に懸かる。雰囲気だけでも、と国立競技場を訪れることも考えたが、テレビで声援を送ることにした。お年寄りの命をあずかる職責の重さを分かっているからだ。
「祖父が走った場所をいつかこの目で確かめたい。母も『死ぬ前に一度は見たい』と言っているので、そのときは一緒に」
祖父も走った男子1万メートルは30日夜、新装された国立競技場で号砲が鳴る。
筆者:森田景史(産経新聞)
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2021年7月30日産経ニュースに掲載された記事を転載しています