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ダイソー創業者の矢野博丈氏死去 100円均一販売を導入、チェーン展開を推進

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撮影の際にポーズを取る矢野博丈氏=2023年12月広島県東広島市(産経新聞)

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100円均一ショップの草分けである「ダイソー」を展開する大創産業の創業者、矢野博丈(やの・ひろたけ)氏が2月12日、心不全のため広島県東広島市で死去した。80歳。家族葬を行った。後日、お別れの会を開く予定。

 

 

独自の経営哲学

 

昭和18年、中国・北京生まれ。戦後、家族と共に広島に引き揚げた。中央大卒。ハマチ養殖業、百科事典の訪問販売やチリ紙交換など転職を重ねた後、47年に移動販売業の矢野商店を立ち上げ、後に100円均一販売を導入した。52年に大創産業として法人化し、社長に就任。平成3年に高松市に直営1号店開店を皮切りにダイソーのチェーン展開を本格化、業界首位に成長させた。30年に社長を次男の靖二氏に譲り会長、31年に退任した。

 

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本社の事務所内で商品に囲まれる矢野博丈氏=1999年12月(産経新聞)

 

「会社は潰れるもの」「自己否定すること」など、ネガティブな発言を前面に出した独自の経営哲学で知られ、産経新聞では令和5年4月から矢野氏の「『100円の男』の哲学」を連載中だ。「行き当たりばったり」といった経営者失格の烙印(らくいん)を押されかねない発言の中に、実は確固たる哲学があり、日本再生のヒントが詰まっている-と考えて始めた連載である。

 

 

お客さま第一を追求

 

〝デフレの寵児(ちょうじ)〟と称されたが、矢野氏の100円均一は、客が殺到して値札貼りや計算の余裕がないほど多忙を極めた末に思わず口から出た産物だ。ダイソーを100円ショップを代表する店に育てた経営哲学は、利益よりもお客さまを喜ばせる〝お客さま第一〟の追求にあった。

 

〝安物買いの銭失い〟と陰口をたたかれて悔しさに震え、「利益を度外視してでも良いものを」と、原価が98円でも100円で売り続けた。「飽きられたら終わり」と、ゲーム感覚で楽しめる商品の開発と売り場づくりにこだわってきた。

 

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関西国際空港に出店した100円ショップのダイソー。外国人観光客の多くが立ち寄る=2016年8月23日(前川純一郎撮影)

 

固定観念にとらわれず、「自己否定すること」を繰り返して経営哲学を磨いたともいえる。

 

イトーヨーカ堂を創業した伊藤雅俊氏が社員に怒鳴りながら指示を出す姿を目の当たりにすると、「経営者は泰然自若するものでなく、目の前のことに必死になって働くことなんだ。社員には叱る方が優しいのだ」として、以後は「日本一怒る社長」に徹した。9回の転職を繰り返す中、「運もなければ能力もない」と後ろ向きになる性格を否定しようと、改名をもいとわなかった。

 

 

ちゃめっ気も発揮

 

仕事を離れれば、常にその場の空気を明るくしようと動いた。

 

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初対面となったのは、令和2年正月、箱根駅伝に出場した母校、中央大の応援にと東京・大手町に訪れたとき。薄手の服装に、広島弁で「暑がりじゃけえ」と自己紹介。「わしは『かいちょう』」と言いながら大創産業〝怪鳥〟とある名刺を差し出した。

 

別の場では、ダジャレを繰り出し、血の付いた刀に似せたダイソーの商品を使って「やられた~」とおどけるちゃめっ気もみせた。

 

大創産業創業者の矢野博丈氏=広島県内の自宅(産経新聞)

 

一方で、大きく〝ありがとう〟と記した別の名刺も用意し、「『ありがとう』を繰り返して言えば、本当に物事が良い方向に転がるんよ」と真顔になって語ることも。

 

「日本人は我慢をせず、一生懸命働かなくなった。日本は潰れるよ」と憂え、「新しい日本を作ろうと呼びかけねば」と、講演活動を精力的に行っていた。広島大で特別招聘(しょうへい)教授として新入生らを前に行う今年4月の講演を特に心待ちにしていた。

 

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今月12日朝、広島県内の自宅で胸の不調を訴え、同日中に死去したという。流通業界が歴史的ともいえる物価高に直面する中、業界の一時代を築いた男は颯(はやて)のごとく去っていった。

 

筆者:今堀守通(産経新聞)

 

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