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東京パラリンピックの開幕を祝い、航空自衛隊の「ブルーインパルス」が東京の曇天に赤、青、緑の航跡を描いた。3色は、パラ大会のシンボルマーク「スリーアギトス」を表すものだ。「アギト」はラテン語で「私は動く」を意味し、限界への挑戦を続けるパラ選手を表現している。
ブルーインパルスは1964年の前回と今回の東京五輪でも五つの輪を大空に描いた。
前回の東京パラ大会開幕時には飛んでいない。今回の飛行は57年の歳月を経て、パラ大会が「もう一つのオリンピック」として成長し、その価値が広く認知されたことを象徴する。
心の変革をレガシーに
前回の東京大会には21カ国から378人が参加し、9競技が実施された。大会の名誉総裁を務められた当時の皇太子殿下、現在の上皇陛下は美智子さまとともに、7日間の期間中、6日にわたって織田フィールドなどの会場に足を運び、観戦された。
閉幕直後には大会役職員を東宮御所に招いて慰労され「パラリンピックがより深く社会との接点を持つためには、障害者スポーツが、健常者のスポーツと同様、真にスポーツとして、する人と共に観(み)る人をも引きつけるものとして育ってほしい」と述べられた。その先見の回答が今大会にある。
今大会には、161カ国・地域から約4400人の選手が出場する。義足のジャンパー、走り幅跳びのマルクス・レーム(ドイツ)は今年6月、自己の持つ世界記録を8メートル62に更新した。これは東京五輪の優勝記録8メートル41を大きく上回る。車いすテニスの国枝慎吾はすでに、ジョコビッチやフェデラー、錦織圭といったスター選手の尊敬を集める存在だ。
「パラリンピック」の名称は、前回の東京大会で日本人デザイナー、高橋春人氏がポスター制作時に考案した「パラプレジア(下半身まひ)+オリンピック」の造語である。88年のソウル大会から正式名称となり、現在では四肢の損傷や視覚障害、脳性まひなどに参加選手の範囲を広げて「パラレル(もう一つの)オリンピック」の略とその定義を変えている。
「パラリンピックの父」と呼ばれる英ストーク・マンデビル病院のルードウィッヒ・グットマン医師は「失ったものを数えるな。残された機能を最大限に生かそう」との言葉を残し、これが大会の精神となっている。
「経営の神様」松下幸之助翁にも「ないものを嘆くな。あるものを活(い)かせ」の名言がある。いわんとする哲学は同じであり、パラ大会のテーマは、経営の理念にも、あらゆる事案にも通底する。
例えば、東京大会の目標は全ての会場での満員の観衆だった。新型コロナ禍で原則無観客を余儀なくされたが、選手を含むパラ関係者は学校連携で子供をスタンドに招くことをあきらめず、自治体などに地道な説得を重ねた。
「父」や「神様」が説いたのは発想の転換や、あきらめない気持ちだった。そしてパラ大会が観戦者に期待するのは、偏見の棄却や共生への覚醒、気づきだ。
パラ6大会の競泳で5個の金メダルを獲得した日本選手団の河合純一団長は「ハードではなくハートのレガシー(遺産)を残そう」と話してきた。大会が望む最大のレガシーは、心の変革である。
五輪の熱気をつなごう
パラリンピックには忘れられぬ情景がある。9年前のロンドン五輪閉会式の翌日、街には広告看板があふれた。「サンクス フォー ザ ウオームアップ」。五輪に「前座をご苦労さま」といってのけたパラ大会の宣伝だった。そしてロンドン大会は前売り券を完売し、会場はどこも盛況でパラ大会史上最高の成功と称賛された。
東京に五輪・パラリンピックの招致を成功させた国際オリンピック委員会(IOC)総会のプレゼンテーションで、東京チームのスピーチを指導したロンドン在住のマーティン・ニューマン氏はこう話した。「私たちが出会ったのはかわいそうな人々ではなく、エキサイティングで偉大な人々でした。ロンドンが大会を成功させたのではなく、パラリンピックがロンドンを変えたのです」
同じ物語が東京で紡がれることを切望する。オリンピックは、十分に東京と世論を温めた。さあ、人類の祭典が始まる。存分に楽しみ、興奮し、応援しよう。
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2021年8月25日付産経新聞【主張】を転載しています