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安倍晋三元首相が凶弾に倒れたショックが冷めやらない。銃撃による暴力で言論を封殺したものであり、許されない犯行を怒るのは当然だ。
だが言論は、暴力と完全に対峙(たいじ)できているのだろうか。言葉は時に、暴力ともなり得る。
安倍氏ほど、ありとあらゆる罵詈(ばり)雑言を浴びせられてきた政治家はいまい。メディアや識者、ネット空間に至るまで、さながら「安倍氏には何を言ってもいい」という免罪符があるかのような状況だった。
これらの多くは権力者の宿命というにはあまりに残酷で、時には持病の難病までがからかいの対象となった。
特にネットにおける匿名の書き込みは容赦なく、仮想空間での憎悪表現の氾濫は、ついに現実への垣根を越えた。安倍氏銃撃を、そうみることもできる。
現実に、安倍氏が亡くなった後も、犯行を支持、肯定し、被害者を揶揄(やゆ)するような匿名の投稿があふれている。
「死ね」「シネバ」「氏ぬの」。こんな言葉の数々は死守すべき言論の自由に値するのか。暴力そのものではないか。実際にこれらの言葉にさらされた多くの人が自ら命を絶った。
「保育園落ちた日本死ね」といった書き込みを「魂の叫び」と多くのメディアがもてはやした。
昭和天皇の写真を焼き、踏みにじる映像もあった。それを識者は「本邦外出身者に対する不当な差別的言動」を禁じるとしたヘイトスピーチ対策法を盾に、「憎悪表現の対象外」と解説した。
寄ってたかって社会を歪(ゆが)めてきたという反省はないか。一切の表現の自由を保障した憲法は、一方で自由の範囲を「公共の福祉に反しない限り」と制限している。その重みを再認識すべきだ。
安倍氏はこれまでも遊説先でやじやシュプレヒコールにさらされてきた。予想される危険を考慮すれば、宣伝カーの上や壁を背後にマイクを持つ選択肢もあった。
元首相を銃弾から守れなかった警備陣には猛省を促したいが、聴衆と近距離の同じ目線で語ることを選んだのは、おそらく安倍氏自身だったのだろう。
現実の言葉を身近なものとして届けるためだ。言論の真の力を信じたからだ。その間隙を突かれて凶行を許したのだとすれば、あまりに悔しく、悲しい。
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2022年7月10日付産経新聞【主張】を転載しています