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産経新聞「正論」メンバーで外交評論家の杏林大名誉教授、田久保忠衛(たくぼ・ただえ)氏が1月9日、細菌性肺炎のため死去した。90歳。戦闘的自由主義の系譜を継ぐ田久保氏は、戦後の論壇で「軽武装・経済中心主義」の保守本流を痛烈に批判し、自立的な安全保障論を貫いたリアリストである。
産経新聞が発表した憲法改正案である「国民の憲法」要綱の起草委員長を務め、国軍を盛り込む憲法改正を遂げるよう政治を叱咤(しった)し続けた。
田久保氏に初めて会ったのは大学時代の昭和45年9月、社会思想研究会(社思研)の沖縄研究合宿だった。その前年に日米両政府は3年後の沖縄返還を約束した「佐藤・ニクソン共同声明」を発していた。
合宿参加のため海路、返還前の那覇の港に着くと、日焼けして精悍(せいかん)な顔の田久保氏と夫人が出迎えてくれた。田久保氏は時事通信那覇支局長のかたわら社思研の理事を務めていた。
社思研は左右の全体主義と闘った東大教授、河合栄治郎の系譜に連なる人々の研究団体である。昭和13年に河合の「ファッシズム批判」など4著書が発禁処分を受け、起訴後の裁判を支援した門下生たちが戦後に創設した。河合人脈の第1世代は社会思想の関嘉彦、政治学の猪木正道らがおり、田久保氏らは第2世代を形成した。
彼はワシントン支局長、外信部長を経て杏林大学教授に転身する。「戦略家ニクソン」研究の第一人者となり、再軍備論を掲げて独特の光彩を放った。田久保氏が我慢ならなかったのは自民党の「保守本流」が護持する「吉田ドクトリン」だった。元来は占領期の吉田茂首相が選択した復興期を乗り切るための経済中心路線である。
吉田自身は独立後の憲法改正を視野に入れていたが、彼の後継者がそのまま利用した。「吉田ドクトリンは永遠なり」として理論提供したのが東工大学教授の永井陽之助だった。この永井論文を田久保氏は「歪曲(わいきょく)された『吉田ドクトリン』」として痛烈に批判した。
戦後日本は、日米安保条約の分厚い保護膜に守られ独立心を喪失した。「憲法9条に守られた」との幻想まで生み出した。この歪(ゆが)みを正すべく田久保氏がジャーナリストの櫻井よしこ氏とともに創設したのが国家基本問題研究所(櫻井理事長)である。
中国の軍事的圧力の高まりで日本人はようやく国家を意識し、身構えるようになった。日本は田久保氏がリードしてきた独立自尊への道を継承し、切り拓(ひら)かねばならない。
筆者:湯浅博(産経新聞特別記者)