Oshika Whale Land in Miyagi Prefecture at Tohoku Region 003

 

宮城県石巻市牡鹿(おしか)半島の先端に位置する鮎川(あゆかわ)浜。その昔、50世帯ほどの静かで小さな漁村であった鮎川浜は、1906(明治39)年に山口県下関市から伝わった捕鯨文化のはじまりと共に全国屈指の「くじらのまち」へと発展してきました。

 

捕鯨産業に従事するため他県から多くの労働者が移り住むようになり、1950年代半ばには 4000人(現在740人)近い人が暮らしていたという記録が残っています。捕鯨が活況を迎えた1953年には鯨霊供養や海上安全を祈願する牡鹿鯨まつりが始まりました。溢れんばかりの見物客が通りを埋め尽くし、町中を仮装行列が練り歩き、海上では捕鯨砲による射撃ショーや捕鯨船の頭上に咲く大輪の花火大会が行われました。人々が本気で笑って歌って踊った鯨まつりは、まさに捕鯨に沸く鮎川浜のエネルギーの象徴でした。

 

しかし、1970年代に入ると、その好景気にも少しずつ陰りが見えてきました。1960年代にピークを迎えた捕鯨産業は、高度経済成長による食の多様化などにより需要が衰え始め、鯨の資源保護の観点から国際世論は反捕鯨へと向かい始めます。その影響を受けて鮎川浜からは捕鯨会社が相次いで撤退、基幹産業の衰退を機に鮎川浜の人口は減少の一途をたどりました。

 

 

こうして鮎川の町が大きく変化していく中、1990年に牡鹿の捕鯨文化とクジラの生態をテーマにした「おしかホエールランド」が大洋漁業㈱の跡地に開業しました。マッコウクジラの骨格標本や捕鯨道具、工芸品などを一目見ようと、ピーク時には年間15万人もの来場者が訪れ、金華山参拝の観光客も相まって鮎川浜が大いに賑わっていたことを今でも思い出します。

 

 

しかしながら、2011年3月11日に発生した東日本大震災によりおしかホエールランド内の貴重な資料は流失、町も壊滅的な状況となり、私たち住民にとっては絶望の日々が続きました。瓦礫が取り除かれ、住居を失った人々が避難所生活からようやく仮設住宅へと移ることができてからおよそ4年が経過した2015年、鮎川浜の新しいまちづくりが動き出しました。26人程の被災した観光事業者で協議会を立ち上げ、鮎川浜の賑わいを再び取り戻すべく、行政、学識経験者の方々との話し合いを進めてきました。時間の経過と共に、廃業や市街地への移住などを理由に協議会からの退会される方や、出店を諦めざるを得ない自力再建者もおりましたが、一歩ずつ着実に復興に向けて歩んでゆく鮎川浜の姿を見てきました。

 

 

そうして震災直後からボランティアの方々をはじめ、全国から温かい支援をいただき、少しずつ復興の道を歩み、今年7月に待望のおしかホエールランドが再建され、開業を迎えることができました。大きなマッコウクジラの骨格標本に驚くお子様から、震災前のホエールランドの思い出を語ってくださるご年配の方まで、老若男女を問わず多くのお客様にご来館いただき、開業からわずか1か月で来館者数1万人を達成することができたことからも、おしかホエールランドの再開を心待ちにしていた方々が多くいらっしゃったのだと感じています。また、今年春には鮎川浜では32年ぶりとなる商業捕鯨も再開されました。再開を待ちわびていた商業捕鯨、そしておしかホエールランドが再建できたことは、鮎川浜にとって大きな喜びであり希望です。

 

 

我々の食卓と生活を支えてきた捕鯨文化を後世に繋ぐこと、鯨の生態を多くの方々に知っていただく教育の場とすること、更には日本近代捕鯨の開幕地としておしかホエールランドを世界に誇る鯨のミュージアムへとするべく、日々努めていく所存でございます。これからも鯨と共に歩んでゆく、くじらのまち・鮎川浜をぜひ訪れていただきたいと思います。

 

筆者:齋藤富嗣(一般社団法人鮎川まちづくり協会 代表理事)

 

 

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