三宅一生さん
=2005年6月22日、東京都渋谷区
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「デザインは希望を表さなければならない」。8月5日に亡くなった衣服デザイナー、三宅一生さんを何度か取材する中で、この言葉を聞いた。
売るためだけのモデルチェンジなど、産業の下にデザインがあるのではない。人間は今どうあるべきかと根源的に問いかけ、未来をつくるものでなければならない。人々に驚きや喜びを与えなきゃいけないと、三宅さんはいつも話した。デザインとは哲学なのだと教えられた。
三宅さんの故郷、広島市の爆心地近くに、米彫刻家イサム・ノグチがデザインした2つの橋-平和大橋と西平和大橋-がある。高校時代、橋を渡って通学していた三宅さんは、太陽をかたどった有機的な造形の欄干を見て、勇気がわくのを感じたという。「デザイン」に希望を託したのは、他ならぬ三宅さん自身だった。
昭和20年8月6日。原爆が投下されたとき、7歳だった。母を原爆症で失い、自身も骨膜炎を発症。しかし長らく、その体験をメディアに語ることはなかった。
「広島を語ることは非常に重要ですが、僕には簡単にできない」。「広島」に話を向けると、いつも口は重くなった。
転機は戦後64年を経た平成21年。核兵器廃絶へ決意を述べた米オバマ大統領(当時)のプラハ演説に突き動かされた三宅さんは、米紙への寄稿で初めて公に被爆体験を明かし、大統領に広島訪問を促す手紙を送った。
〈目を閉じれば今も、赤い閃光、直後の黒い雲、逃げまどう人々…すべてを覚えています〉
それまで沈黙を守っていたのは「原爆を生き延びたデザイナー」とレッテルを貼られたくない、自分自身も被爆を言い訳にしたくないという思いからだったと告白した。
「言葉にするのはとても難しい体験ですし、やはり原爆の悲惨さは伝えられない。伝え切れない。でも、プラハ演説は、待ちに待った瞬間だったんです」。後日、こう語ってくれた三宅さんの思いとは裏腹に、オバマ政権下でも臨界前核実験が実施され、北朝鮮の核問題も深刻化。後に同大統領は広島を訪問したが、三宅さんの心中は複雑だった。「(核を)持つことで抑止力になるとか国が守られるとかいろいろ議論はありますが、いずれにせよ、一発で世界は滅びるわけですから」
それでも、「デザインは希望を表すものでなければ」と前を向き続けた。人を幸せにする衣服を追求し、「 21_21 DESIGN SIGHT」(東京都港区)のディレクターとして、夢のある企画展を発信し続けた。
レッテルを貼るなと叱られるかもしれないが、三宅さんの創作の原点は間違いなく、「広島」にあった。77回目の原爆の日を前に、デザイン界の巨匠は天へ旅立った。希望のデザインは、これからも着る人を幸せにするはずだ。
筆者:黒沢綾子(産経新聞)