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全国に古代から今も残っている歴史的な山岳古道を調査して、魅力ある古道を紹介する5年がかりのプロジェクトが、最終段階に入っている。
日本最古の山岳会、日本山岳会が、来年2025年の創立120周年に向けて2020年から進めているものである。
120周年に合わせて120の歴史的、文化的価値や地理的な特徴のある山岳古道を選んで、全国にいる会員の手で調査し、文化的遺産として残していこうという、そして多くの人に歩いてもらおうという、記念事業の一つである。
これらの山岳古道はかつて、さまざまの目的で古代の人々が歩いていたものだが、道路の発達やモータリゼーション、さまざまの開発の結果、その多くは使われなくなる、適切に管理し利用されなければ、忘れ去られていくものや、消えてしまう危機にあるものである。
現在4,800人の会員を持つ日本山岳会は、明治38(1905)年に、日本に近代登山を紹介した英国人宣教師ウォルター・ウェストンの後押しも受けて、英国の山岳会に倣って、アジア初の山岳会として創設されたもの。1956年には山岳会の遠征隊がマナスルに世界で初めて登頂して日本に登山ブームを起こした。登山活動だけでなく、自然保護、学術研究や山岳文化の研究、文化事業などを行って登山界の発展に貢献している。
日本初の全国規模の山岳古道調査
古道調査プロジェクトはまず、全国にある山岳会の33支部の会員が、地元の興味深い歴史的背景のある古道を、支部ごとにリストアップし山岳会本部の「山岳古道調査プロジェクトチーム」に提案、その中から、後の世代に残すべき120の古道が最終的に選ばれた。
このように全国的規模で山岳古道を調査して、その結果が広く公開されるのは、初めてだと、プロジェクトリーダーの近藤雅幸氏は、このプロジェクトの意義を強調する。文化庁が40年以上前に「歴史の道」の調査事業をしたことがあるが、調査対象は平地の街道を中心にしたものであった。山の中を通る古道を調査したものがあっても、地方自治体やボランテイア団体、個人などによるもので、調査の成果はその地方にとどまっていたので、他の地方の人の目に触れる機会はあまりなかった。
机上の調査を終えて、フィールドに出て実際に古道を歩く調査は、2021年から、北海道から九州までの支部ごとに本格的に始まった。地域によっては、新型コロナ感染症のピーク時には実地調査が何度も中止されなければならなかったため、何か月もの遅れが出たにもかかわらず、現在、調査を終えた支部から、それらの古道についての原稿や写真、地図のデータなどが、続々と本部のプロジェクトチームに入ってきている。本部では、現在それらの原稿を編集し、ウエブサイトに順次アップする作業に大忙しである。すべての古道の調査の結果は2025年度をめどに、ウエブサイトで公表されることになっている。
国土の70%が山である日本では、古代から、多くの道は丘陵や山に作られていた。人々が他の集落・地域に行くためには山を越えて行く必要があった。崩れやすく迷いやすい川のそばや谷を通って行くよりも獣が少なく外敵に襲われにくい尾根の道を行く方が安全であった、と日本山岳会副会長の永田弘太郎氏は、日本の古道が何故山岳地に多かったのかを説明してみせた。
これらの道を、古代から明治まで、人々は、食糧や産物を運ぶ生活の道、流通の道として、また、山にいる神を拝むため、そして修験のために山に登る信仰の道として歩いてきたのだ。15 -16世紀の中世には敵の裏をかくために山を使って進軍したことも歴史に残っている。
しかし、これらの道の多くは、明治になり近代化で新しい道路がつくられ、その結果歩かれなくなって草や木に埋もれたり(日本の気候は高温多雨なため、放置すると草木が繁殖して薮と化す)、開発によって消えてしまったりして、世界遺産に登録された熊野古道などのような保全管理された山岳古道以外は、何もしなければ消えていくだけだと、プロジェクトチームのリーダー近藤氏は警告する。
東京多摩支部の古道調査
古道調査の進め方を、東京多摩支部の例で見てみる。まず12人ほどの調査チーム会員による山岳古道に関する文献のサーチなど情報収集から始まった。
地元や周辺の市町村がまとめた郷土史など、一般の市民歴史家や登山家、山岳文化研究家などが書いた本、現在の山地図と古地図、古文書など、会員たちがこれまでに収集していたものや、あらたに現地の市町村や図書館、博物館などで見つけたものを調べる。この作業を通じて、古道が通っていたルートを突き止め、古道の歴史やそれにまつわる伝説、文化的背景などもリサーチしたのである。
地元の古老など、往時の様子を知っている人にインタビューして話を聞き、子どもの頃やお祖父さんのころのエピソードを聞き出して記録する。地方自治体の担当者や郷土史の専門家なども訪ねて話を聞いた。
山岳古道について、関連の言い伝えや物語を知っている地域の古老を見つけることは、適切な古文書や古地図を見つけることと同じ位に、古道調査の中で困難なところであったと、東京多摩支部調査チームのリーダーは打ち明けた。古道にについて知っている人々は急速に減っている、と奥多摩の古道や歴史に詳しい石井秀典調査チームリーダーは言う。あと10年、20年早くこのような調査が行われていたら、昔の道のことを話せる人たちがもっと多くいただろうに、と同氏は言う。
このような情報収集の結果を踏まえて、調査メンバーは、選んだ古道を実際に歩いて、古代に使われていたことを示す道標や石仏、道端の祠、そのほか山道のかつての賑わいを示す遺蹟などを探して写真を撮る。
最終的な報告記事を書くまでに、彼らは、数キロから十数キロも続く古道の同じコースを実際に山を越え峠を越えて何回も歩かなければならない。古道を説明する主要記事のほかに、その古道にまつわる歴史やエピソード、伝説や文化的社会的背景を深掘りした囲み記事などで補足して興味深い読み物にするのである。
この支部で調査しているのは4つの古道で、その一つは、「古甲州道」である。平安時代末期から山や峠を越えて「武蔵国府」(東京の府中)と「甲斐国府」(山梨県甲府)を結ぶ官道で、戦国時代には北條氏と甲斐武田氏との戦いの道であったもの。江戸時代に甲州街道が整備されるまでは、交易道として重要な役割を果たした。
信仰の道
選定された120の山岳古道は、「信仰の道」、「生活の道」、「歴史の道」」の3つのグループに分けられている。中でも一番多いのは、信仰に関する道である。(もちろん道というのはさまざまの目的に使われるものだから、信仰の道は人々の生活の道とも、時には、戦国の戦に使われた歴史の道とも重なるけれども。)
近藤氏が言うように、ヨーロッパの高山には悪魔が住むと恐れられたのに対して、日本では古代から、山は信仰の対象になってきた。山は神々が住むところ、降りてくる場所、あるいは山が神そのものとして考えられてきた。
「昔から、ヨーロッパの山は、日本の山と違って、宗教的な意義を持っていなかった....山は役に立たない、危険な場所とみなされていた」と、深田久弥の『日本百名山』を英訳したマーティン・フッド氏は、日本山岳会で語ったことがある。
日本百名山のような人気のある山、多くの登山者が登る山のほとんどが、現在でも「霊山」として敬われており、登山道の脇や頂上に祠や神社が祀られている。日本の山で、麓や道の傍、頂上などに神社や石仏がない山を見つけるのは困難なほどである。
千年以上前の古代から、人々は日本三大霊山として、駿河の富士山、越中の立山、加賀の白山に、登拝していた。僧や修験者、信者が登拝するための道が今でも多く残っており、その多くが、現在は登山者によって登られている。今回の古道調査によって、これらの山岳古道とその歴史、文化がいま再発掘、再発見されようとしている。
120の古道の中からいくつかの例を見てみる。
富士山登拝の道
「信仰の道」の一つが富士古道(富士山登山登拝の道)である。たびたびの噴火で人々に畏れられ崇められてきた。平安時代にすでに登拝が行われ、室町時代には先達に引率されて多くの人々が参拝したと、日本山岳会の富士古道の紹介にある。富士山登拝が大流行した江戸時代後期には、代表的な登拝道4ルートのほかに、中腹を一周する御中道があった。近代以降にさらに3ルートができた。1860年(万延元年)には英国駐日大使オールコックが外国人としてはじめて登っている。
このジャンルにある他の山岳古道には、立山参拝道と白山禅定道などの参拝道がある。立山参拝道は、平安時代から修験者が入峯修行し、江戸時代には全国から信者がこの3000メートルの山に登っていた。白山もすでに平安時代には美濃・越前・加賀の三禅定道が開かれている。
これらの高山を行く山岳古道だけでなく、四国巡礼の道や熊野古道などの参拝道もまた山の中を通るのに対して、コンポステーラのような西洋の巡礼の道(参拝道)の多くは、大部分が平地である、と近藤氏は指摘する。
多くの興味深い「生活の道」
「生活の道」の中には、「信仰の道」と同じぐらい多くの、興味深い山岳古道が含まれている。「塩の道」として知られる千国街道は、糸魚川で精錬された塩が山を越えて内陸部の信州松本に運ばれた120キロにわたる庶民の道だった。
同様に、日常の生活の道の代表的なものに、「鯖街道」と呼ばれるものがある。京の都と若狭の国(福井県)を結んだ街道で、日本海で獲れる鯖や海産物を小浜などから山を越えて運んだ、約80キロにわたる道が少なくとも6本あったと言われている。
「歴史の道」、銀山への道
「歴史の道」のグループには、興味深い歴史を持った古道が多く入っている。かつて、大量の金、銀の産出で知られた日本には、全国各地にあった金山、銀山、銅山などへの古道が残っている。多くの伝説が知られる古道や戦国武将が戦のために高く険しい北アルプスの山を越えた山岳古道のほか、アイヌの道や琉球王国の道も取り上げられている。
その一つが、島根県にあった日本最大の銀山、石見銀山への道である。1500年半ばから大正時代まで約400年間にわたって銀が掘り続けられ、最盛期には世界の銀の約3分の1を産出したといわれている。ユネスコの世界遺産にも登録されている。
もう一つの「歴史の道」、東山道・神坂峠は、飛鳥時代後期から平安時代にかけて(7世紀後期〜10世紀)造られた官道の一つで、岐阜県中津川から長野県の阿智村へ木曽山脈を越える間にあるのが神坂峠である。神坂峠は標高1,569メートルにあり、京都から中津川を通り東北に至る街道の、古代の歴史上も重要なポイントであった。現在は恵那山に登る神坂ルートとして利用されている。神坂(みさか)という名は、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征の帰りに通ったと日本書紀にあることから来ていると言われる。大和朝廷は飛鳥時代後期から平安時代にかけて、都から本州、九州、四国、東北の地方拠点を結ぶために幅10m以上もある直線状の道路を開いた。都の周辺は幅が40mもあったという。
山岳古道の今後―文化遺産、観光資源として
「これらの山岳古道が埋もれてなくならないうちにその記録を残し古道を保存することが大切だ」と永田氏はインタビューで語った。その調査記録を、その地域だけ、あるいは登山者だけでなく、全国の人々と共有して、次の世代に伝えることが大切だと、同氏は言う。調査報告がホームページ上で公開されたら、2年後ぐらいに出版することも目指す。
来年、古道調査が終了したあとも、このプロジェクトが完全に終わるのではない。日本山岳会は、定期的な調査を継続して古道の情報を更新し、この調査で新たに再発見された古道が、文化遺産として保存され観光資源として活用されるようにしなければならないと永田氏は言う。
そのためにも、山岳古道が通る地域の自治体や住民が古道のすばらしい価値を十分に理解し、彼らの資源だと気付いてほしい、彼ら自身で必要な古道の管理をして、多くの観光客や登山者に歩いてもらえるようにすることを永田氏や近藤氏は期待する。古道が復活すれば環境保護にもつながるし、多くの人がこれらの古道を歩けば地域に経済効果も期待できるのだ、と言う。
近年は外国人観光客が、文化・歴史の伝統が豊かな日本の地方に興味を持ち、木曽街道や熊野古道のような歴史的な古道を歩く外国人旅行者も増えていると、二人は指摘する。このようなところを行くツアーを提案する旅行会社も増えている。このことは、日本山岳会が調査している山岳古道も、うまく宣伝されて評判になれば、多くの外国人旅行者やハイカーが歩きに来てくれるのではないかと期待が膨らむ。より多くの人が山岳古道を歩いてくれれば、それだけ山岳古道が保存されることになるのだから。
筆者:石塚嘉一(ジャパンタイムズ元編集長)
この記事の英文記事を読む
- 120 Ancient Mountain Trails Selected for Survey in Japanese Alpine Club Anniversary Project
- Tracing Ancient Mountain Trails with the Japanese Alpine Club