202108 Kumamoto Suizenji Park

Suizenji Garden’s Fuji Tsukiyama, designed to imitate Mt. Fuji, provides a stunning landscape like a modern art space. (Kumamoto City, Chuo-ku. Photograph by Professor Yoshihiro Senda)

水前寺成趣園の富士山を模した富士築山。まるでモダンなアート空間のよう

=熊本市中央区(千田嘉博氏撮影)

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熊本市にある水前寺成趣園(すいぜんじじょうじゅえん)は、江戸時代の大名庭園がそのままに伝えられる日本屈指の回遊式庭園である。清冽(せいれつ)な水をたたえた池、たおやかに連なる築山、絶妙な枝ぶりの木々が織りなす景観は、浮世を忘れる美しさである。庭園は熊本市電の停留所「水前寺公園」で降りれば目の前なので交通の便もよい。熊本に旅をして水前寺成趣園を訪ねないのは、あまりにもったいない。

 

この庭園は第3代熊本藩主細川綱利が1671(寛文11)年に工事を行って今見る姿が完成した。つまり2021年は水前寺成趣園の完成から350年という節目の年にあたる。そこで11月27日に水前寺成趣園350年記念講演とシンポジウムが熊本市で開催され、千田が記念講演を務めさせていただいた。翌28日には水前寺成趣園を舞台に勇壮な流鏑馬(やぶさめ)や赤穂浪士の義士行列、人間国宝・野村万作氏による狂言などを行って盛大にお祝いした。

 

熊本市は阿蘇の伏流水をはじめとして水に恵まれた土地で、人口74万人の水道の水源をすべて地下水でまかなっている。これだけでも驚くが、なんと熊本市の水道水はカルシウム・カリウム・ケイ酸・マグネシウムを、市販のミネラルウオーターの平均値より豊富に含んでいるという(熊本市HPより)。水道から上質なミネラルウオーターが出てくるとは、なんと幸せなことだろう。

 

そして綱利が水前寺成趣園をつくった水前寺も、豊富な水が湧き出るところで、綱利は湧水地を保護して活(い)かして庭園を整えた。綱利は6歳で藩主の父を亡くし、江戸を発(た)って熊本に初めてお国入りしたのは18歳のときだった。綱利の治世は江戸幕府を中心とした政治体制が盤石で、すでに戦いのない時代が長く続いていた。

 

熊本城

 

細川氏の居城は加藤清正が戦国の知恵を集めて築いた熊本城。そして熊本城は強烈な「武」の象徴だった。しかし軍事力で他者を圧倒する「武」の力だけで、地域は治められなくなっていた。そうした時代に「武」だけではない地域を治めていく新たなシンボルとして生み出したのが、「文化」の力を象徴する水前寺成趣園だったと思う。熊本大学の稲葉継陽(つぐはる)氏のご教示によれば、藩主不在時には熊本藩の武士は庭園を拝見できるようになっていた。庭園は綱利だけのものではなかった。

 

そして水が湧く低湿地を整えて園池をつくるには、芸術的感性とともに高度な土木技術が必要だった。細川氏は信長の時代に京都府の勝龍寺城を築いて、安土城天主より早く「天主」を建て、その後居城にした福岡県の小倉城では低湿地を先進技術で埋め立てて城を築いていた。

 

水前寺成趣園の池の岸を安定させる巧みな技術、美しい築山を生み出す盛土の技は、まさに築城で培った石垣の基礎や防御の土手(土塁)の造成方法などの軍事技術を平和に活かしてできた。庭園は人をもてなしてつなぎ、芸術を生み出す創造的な空間である。水前寺成趣園の精神を21世紀の私たちはどう受け継ぎ活かせるだろうか。

 

筆者:千田嘉博(城郭考古学者)

 

 

■水前寺成趣園
国の名勝・史跡に指定されている桃山式の回遊式庭園。小倉藩から熊本藩に転封となった細川忠利が、御茶屋を設けたのが始まり。孫の綱利の時代に大規模な工事が行われ、庭園が完成した。庭園の名前は、中国・魏晋南北朝時代の詩人、陶淵明の詩に由来する。明治10年の西南戦争で荒廃した熊本城下の復興と歴代藩主を祭るため、11年、旧藩士らが庭園を境内とする出水神社を創建した。

 

 

2021年12月6日産経ニュース【千田嘉博のお城探偵】を転載しています

 

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